260年もの天下泰平の世を築いた徳川将軍家、そのレガシーを継承。

德川宗家第19代当主・德川家広

19th Head of the Tokugawa Main Family, Iehiro Tokugawa

東京 [東京都]

德川 家広(とくがわ・いえひろ)
東京都出身。小学1〜3年生までニューヨークで過ごし、帰国後、学習院で高等科まで学ぶ。慶應義塾大学経済学部卒業後、ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得。国際連合食料農業機関(FAO)に勤務後、コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得。翻訳家、政治経済評論家、作家として活動しながら、公益財団法人德川記念財団理事長を務める。令和5年1月に德川宗家19代当主を継承。

織田信長・豊臣秀吉とともに天下統一の三英傑の一人に数えられる徳川家康。戦国時代を終わらせて天下を統一し、江戸幕府を開いた。そして徳川将軍家は、260年もの長きにわたる平和な世を実現した。この時代、江戸は世界屈指の100万人都市に成長し、さまざまな文化が花開いた。やがて徳川の世は終焉を迎え、江戸の町は東京へと名を変えた。しかし関東大震災や大空襲などの苦難を乗り越え、東京は今も発展し続けている。この東京のパワーの源のひとつに、徳川将軍家が江戸の町に刻んだ数々の遺産がある。
今回は、徳川将軍家の歴史資料や文化財を守り、江戸時代の日本の姿を今に伝える活動を行なっている公益財団法人德川記念財団の理事長、德川宗家19代当主の德川家広さんにお話を伺った。

“清潔・安全・便利” 徳川の治世が東京に残したもの

徳川将軍家を継承する德川宗家、その19代目が德川家広さんだ。大政奉還を行った15代将軍・慶喜の後、御三卿の田安家から家達(いえさと)が養子に入って16代を継承。その息子の家正が17代を継ぐが、家正の息子が早逝した。そのため、会津松平家分家の松平一郎と結婚した家正の長女・豊子の次男が18代の恒孝(つねなり)で、その長男が家広さんである。

「今のご時世で德川宗家というと、色々と勘違いされていることも多くて…。僕なんか、日光東照宮に住んでいると思われたりもしますよ。霊魂じゃなんだから…(笑)。」

家広さんは東京で生まれ、小学生の頃をアメリカで過ごし、慶應義塾大学を卒業した後アメリカに留学して経済学・政治学を学び、国連の食糧農業機関に勤めてローマやベトナムで働くなど、国際的な経歴だ。

「私に限らず德川宗家はずっとグローバルなのです。徳川家康も天下が落ち着くと、中国の古典を活字で印刷し、それまで戦が仕事だった武士達に漢文を勉強させました。武士に中国語の膨大な知識を取得させ、中国とまともに貿易と外交ができるようにしたのです。これは今の感覚でいうと英語を社内の公用語にするようなものです。この間漢文化政策の効果は上がり、ペリーがやってきた時に応対したのも湯島聖堂の林家の人間で、つまりは漢学者でした。明治以降も、德川宗家の16代はイギリスに長期留学、17代は外交官、18代は海外で少年期を過ごして海外勤務を二回こなすなど、一貫して国際派でした。」

海外経験が豊富で、グローバルな視点も持つ家広さんは、東京に当たり前にある“清潔・安全・便利”といった魅力は、他の国にはなかなかないものだという。

「東京に来た外国人が一番関心を持ち、不思議だと思っていることは、東京の町が、英語は通じにくいものの、雑多というかバラエティ豊かで、清潔で安全で便利だということです。しかも、グレーター・東京(埼玉、神奈川、千葉を含む)は世界最大の人口を誇りつつ、すべてが実にきちんと動いている。
“清潔・安全・便利”という形容にあてはまる、快適な巨大都市は、他にはない。地球上のどこにもないと言ってもいい。これも徳川の世が残したレガシーだと思います。」

「19世紀後半に明治維新があり、多くの外国人が日本にやってきました。その時、外国人が見て驚いた光景と、今、外国人が見て驚いている光景は似ていると思います。ものすごく異質だけれど、そこには間違いなく一つの尊敬するべき文明がある。この日本文明の特徴が、“清潔・安全・便利”だと思います。」

文化は都市で生まれるもの 驚くべき徳川幕府の都市開発

徳川家康は江戸の都市開発に、陰陽道に基づく四神相応の理念を採用したといわれている。江戸城を中心に時計回りに渦巻状に堀を巡らせて町にパワーを呼び込み、祈願寺の浅草寺や菩提寺の増上寺や寛永寺を置いて江戸の町を守護した。

「陰陽道的要素は、あったとしても仕上げですね。徳川家が江戸に入った時には、小さな城下町を持つ小さな江戸城だったわけですが、その江戸城を関東の中心にふさわしい大きさに拡張する。すると今度は、江戸開府となって、全国の大名にも屋敷地を与えなくてはいけない。しかも、ほとんどが湿地帯か海なので、埋め立てで拡張しなくてはいけない。これが渦巻き都市の真実です。本当は豊臣を滅ぼした後の大坂に拠点を移すのが合理的だったのですが、 豊臣秀吉の朝鮮出兵の記憶を消すために大規模な「東方移民」を行い、合わせて新しい、平和な文化を作るために、手間だけれども関東に新天地を求めたというわけです。」

「武家地は大名たちが作りましたが、埋め立てや、その後のインフラ開発をしたのは町人で、町の開拓者としての特権を認められました。地主とは別の業者が長屋を建て、地方から引っ越して来た貧しい人たちが長屋に入り、屋のオーナーに雇われた大家に監視されつつ、江戸っ子としての生き方を教わっていく。だから庶民は貧しくとも、孤立感はなかったのですね 。」

「今でも東京は、日本の中では差別が少ないと言われます。それから、首都としての財政力のおかげもあって、弱者にも優しい町を目指しているように見えます。これは実は、近代化よりは、江戸文化の遺産なのですよ。百万人の人口を擁しつつ、スラム化させないための幕府のノウハウが、今の都庁にも受け継がれているわけです。」

また江戸幕府は、驚くほど大規模なインフラの大工事も行っている。当時の利根川は江戸湾に注いでおり、頻繁に洪水を起こしていた。そのため1665年に改修し、千葉県の銚子市に流れるようにした。

また日本初の上水は1590年の井之頭池を源泉とする神田上水だが、1653年には玉川から四谷まで43kmある玉川上水を開削した。これは当時のロンドンを凌ぐ世界最高の給水システムであった。

「平和を維持する上で一番大切なのは、弱者や少数者を守る姿勢。そしてこれは、文明そのものでもあります。“強い者は弱い者から奪う権利がある”と考える人も多いのですが、実はこれは野蛮な人。残念ながら、世界の大半はこっちです。“強い者には弱い人を守る義務があるのだ”という、いわば「文明の思考」が優勢になれば、最初は面倒臭いけれども、やがて文化が華開きます。」

「じっさいには、関ヶ原の戦いから七、八十年が経過して、やっと江戸時代らしい文化が生まれてきます。それまでは、戦国時代と織豊時代の後始末というべき状態でしたね。とはいえ、人口の急増によく対応し、衛生状態も悪化させなかった。乱世の遺風が残る初期の江戸で治安が維持できたのは、反抗的な浪人者が厳しく取締られたからですが、元禄に入ると浪人の子供や孫が、文化の世界で活躍するようになっていった。やっと平和に適応できたのです」

さらに江戸幕府は、五街道をはじめとする陸や海の交通網を整備し、朱印船貿易による海外貿易を行うことで、江戸のみならず、日本経済も大きく発展させた。

「豊臣の朝鮮侵略は、けっきょくは国内の土地不足が原因。だけれども、実は江戸時代初期の日本には、開発の余地がたっぷりありました。東北はおろか、関東平野までが人口希薄だったのです。それから、海もけっこう遠浅だった。いっぽう、戦乱の終結で人手は余っている。それで「大開発時代」となったわけです。それから、将軍を筆頭とする武士身分の権力を制限した。それで富が民間に貯まるようにして、さらに庶民が困窮すれば、自立心を損なわないように配慮しつつ救済もわりとしっかり行っていた。国が全体として、ゆっくりと着実に豊かになっていったからこそ、江戸はもちろん、京都・大坂の文化も輝くことができました 」

日本の平和は、PeaceではなくPeace&Harmony

家広さんは、江戸時代の長い平和の名残を、今の日本人のふるまいや、人と接する態度から感じることができるという。きっとそれは、東京を訪れる外国の方々も感じているはずだ、と。

「徳川幕府の政治は仏教をベースにしていました。朱子学重視は、あくまでも先進国である中国の語彙の摂取のためであって、価値観は仏教です。ただし、為政者は怖くないと、行政を担う武士たちも、庶民も、従わない。怖い顔をして、それと知られないように極力慈悲深い政治をする。そして慈悲の価値観を浸透させることで、「和」を醸して、政治的な安定の下支えとする。これが 徳川幕府の基本戦略でした」

「日本語の平和というのは、Peaceよりも高級な概念だと私は考えております。英語のPeaceは“戦争がない状態”のことを言いますが、これだと「平」だけ。加えて人間関係が「和やか」なのが、「平和」です。Peace&Harmonyということになるでしょうか。
力ずくで争いを無くすことは必要ですが、それだと力が尽きれば乱世に逆戻りです。やはり力のあるうちに、人々のお互いに対する恐怖心をなくすことで、争いが起きにくくなる。平があるから和が可能になり、和があるから平が長続きする。江戸時代の長続きの秘訣は、けっきょくはここに落ち着くかと思います」

「今の日本にとって江戸時代は遠い昔の話で、2023年の大河『どうする家康』も歴史ものを通り越してファンタジー・サーガのようでしたが、実は徳川家康が夢見ていた国というのは、今の日本のような気がします。江戸(東京)を中心として、日本列島を領土とする国家で、平和を国是として、国民の一人一人に、少なくとも建前としては尊厳のある状態。四百年前の理想が、今にいたるまで生き続けていると見ることもできます」

精神的な安定を江戸の人に与えた増上寺・東叡山寛永寺・上野東照宮

東京のことは知っていても、東京のルーツを知らない人は多い。東京には、幕末・関東大震災・戦争という3つの危機があった。これらによって江戸の風景は失われてしまい、現在の東京には400年を超える建物はとても少ない。しかしこれらを経ても尚残っているものは、本当に貴重なのだ。

「徳川将軍家とゆかりのある江戸時代の建物といえば、菩提寺の増上寺や寛永寺、そして上野東照宮があります。」

「増上寺も空襲で大部分が焼けてしまいましたが、徳川家康が江戸に来る前からあるお寺なのです。三解脱門は江戸時代に建てられたものです。」

「寛永寺は明治維新の時に戦場となって焼けてしまったため、本堂(根本中堂)を川越の喜多院から移築しましたが、戦災は免れ、江戸時代前期のままの建築を、今も見ることができます」

「上野東照宮は戊辰の動乱も震災も戦災も乗り越え、1651年に改築された時のままの建物が残っている貴重な建物で、国の重要文化財にも指定されているのですが、あまり知られていないのが残念ですね。」

上野東照宮は、むしろ外国の方のほうがSNSなどでよく知っていて、多くの外国人が訪れている。日本人が知らないのは残念。

「上野東照宮の近くには、首だけが残っている上野大仏や、五重塔もありますが、これらで近代史を説明したいですね。なぜこれらが上野の山にあるのか?元々ここは全部寛永寺の境内で、幕末の上野戦争でほとんど焼けてしまったのだと。」

「江戸時代初期に建設された上野大仏は、関東大震災で頭部が落下したり、戦争の時に頭部以外が金属だということで軍隊に供出させられた歴史があります。戦争の傷跡を乗り越え、今は首だけになってしまいましたが、「もうこれ以上落ちない」ということで、合格祈願に御利益があるといわれて人気があります。」

最後に、家広さんに未来に繋いでいきたいものを聞いた。

「漢字文化の衰退を憂いています。漢文教育を現代に甦らせたいですね。江戸時代の人は、湯島聖堂や全国の藩校などで、質の高い漢文教育を受けて、漢字世界全体の情報を直接摂取できるようになっていた。おかげで幕末の日本のエリートの国際情勢理解は極めて深いものとなっており、それで幕末維新の激動も乗り越えられました。漢文は、何千年にもわたって多様性を孕む中華帝国を運営するために発達してきた人工言語であり、そこに動乱の中で血を吐くようにして述べられた思想が蓄えられてきました。江戸時代の日本が世界の最先端の文化水準を実現できたのは、漢文教育のおかげであり、今の日本人が日本語であらゆる問題を考えることができるのは、その遺産です。日本語から漢文という骨格が失われれば、私たちはバベルの塔の崩壊のような惨事に見舞われることになるでしょう。漢文抜きの日本語だけではまともな意思疎通ができなくなるのです。というか、現にそうなりつつあります。そういうわけで、今の私たちの日本語の大切な一部である漢文を復活できたら。これが今の私の夢ですね」