観光を通して繋いでいく、石巻の震災の教訓と人の想い。

斉藤 雄一郎

Yuichiro Saito

石巻市 [宮城県]

斉藤雄一郎(さいとう・ゆういちろう)
東京都出身。石巻圏観光推進機構(石巻圏DMO)、業務執行理事。東日本大震災直後に、勤めていた大日本住友製薬株式会社(現 住友ファーマ株式会社)より復興支援室長に任命され薬剤師派遣に携わる。その後CSRでの支援業務を経て、総務省からの任命で石巻市役所に復興支援専門員として出向し、「観光」で石巻エリアを活性化させるDMO設立に尽力する。現在は石巻に移住し、DMOの責任者として防災教育や震災遺構の見学などもツアーに組み込んだ、石巻だからこそ体験できる観光を提案している。

東日本大震災直後に勤めていた製薬会社から復興支援室長に指名され、石巻に派遣された斉藤さん。東京から拠点を大阪に移し、そこから石巻とを往復する日々がスタートする。薬剤師派遣に始まり、立場を変えながら地域サポートやオーラルヒストリーなどにも携わり気付けば12年が経つ。現在は石巻市に移住し、石巻圏DMOの責任者として「観光」で石巻を活性化させようと、地元の観光資源に加え、被災地だからこそ伝えられるツアーにも取り組んでいる。震災からの復興を自らの目で追ってきた斉藤さんが、未来に繋いでいきたいものはなんなのか。斉藤さんと被災地の関わりを辿りながらお聞きした。

東日本大震災を機に関わり始めた石巻。
人の命を守るのは私の使命。

「故郷東京を離れ、石巻と関わるようになって12年が経ちました。会社勤めだった頃は転勤族でしたので各地を転々としましたが、それでも長くて1つの場所に5年程。気付けば、ここでの生活が一番長くなりましたね」

そう話すのは、斉藤雄一郎さん。石巻圏観光推進機構(石巻圏DMO)(*1)の業務執行理事として、「観光」の力で宮城県北東部に位置する石巻市、東松島市、女川町の3つのエリアからなる石巻圏に人を呼び込もうと、地域の魅力発掘やツアー企画など精力的に取り組んでいる。

「いつの間にか、人口13万人の石巻市は知り合いばかりのまちになっていました。間違いなく、ここは私の第二の故郷です」

斉藤さんが石巻市と関わるきっかけとなったのは、2011年3月に発生した東日本大震災である。その月の終わり、製薬会社の東京支店長として次年度の事業計画を立てた直後に、本社から1本の電話が掛かる。

「会社として1年間、復興支援に取り組むので、現地に行ってほしい」

宮城県薬剤師会からの要請を受け、薬剤師の資格を持つ社員を現地に派遣するというものだった。斉藤さんに任されたのは復興支援室長である。

「会社から指名されたときは正直驚きましたが、当時社内でも、ボランティアとして現地に向かいたいという声が多く挙がっていましたので、やるしかないと覚悟を固めました。まずは現地の状況を把握するために、とにかく石巻を訪れたんです」

羽田発の臨時飛行機で、急遽仙台へ向かった斉藤さん。仙台空港もまだ閉鎖されており、滑走路脇には小さな小屋が建つだけだった。映像では見ていたものの、空港の惨状を目の当たりにし、とんでもないことが現実に起こっているのだと実感したという。

その後、斉藤さんは大阪本社の復興支援室に席を移し、石巻市とを往復しながら支援体制づくりを始める。最大の目的は、「医薬品を滞りなく現地の医師の元へ届ける」こと。そのために、社内から集まった200名の薬剤師を3人1組のチームにし、1週間ずつ派遣する仕組みをつくった。また、活動の拠点として、仙台の支店の1室にサテライトオフィスを設置。さらに、移動手段であるワンボックスカーもなんとか確保し、薬の他に社員の生活や安全を確保するための食料や水、携帯電話や簡易トイレに至るまで積み込んだ。

「なにをやるにせよ手探り状態でしたが、とにかく穴を開けるわけにはいきません。最初の頃は医薬品の管理や薬剤師派遣の業務に追われる毎日でした」

余震も頻発する中、斉藤さん自身も足繁く医療現場や避難所を巡っていた。道すがら目にする被害の状況。かつて人や車が行き来していた道には津波で打ち上げられた船が横たわり、移動もままならなかった。ようやく辿り着いた避難所では、底冷えする体育館で、ただただ横になっている被災者たちを目にした。

「その姿を見て胸が苦しくなりました。薬を扱う仕事は、人の命を守るというミッションを持っています。これは私たちの使命なんだと強く思いました」

しばらくすると、社内で一般ボランティアの募集も行われ、各被災地に派遣された。放射線の技術を持つ社員は、除染作業も率先して行ったという。

とにかく走り続けたその1年が終わる頃、会社はCSR(*2)事業の1つとして正式に復興支援を位置付ける。立場は変わったものの、現地の方との繋がりができ始めていた斉藤さんは、被災地での支援を継続して行うことに。

月日が経つにつれ、支援の内容は、次第に地域活動のサポートにも広がっていった。中でも、福島第一原発の被災により、まち全体が会津若松市に避難していた福島県大熊町の住民へのボランティアは強く記憶に残っているという。

「幼稚園・小学校・中学校の合同運動会のお手伝いをしたんです。元の学校からはなにも持ち出せない状況でしたので、備品も全てこちらで準備しました。会場に飾る旗なども、社員総出で手づくりしたり、みなさんのお弁当も用意して当日を迎えました。3年程関わりましたが、子どもたちや地域の方の歓声は今でも忘れません」

そして人的支援が落ち着いてきた2013年の10月、斉藤さんは新たに、石巻市の復興支援専門員に任命される。被災した自治体に、民間企業から最低3年間社員を出向させるという総務省の取り組みだった。

「石巻の支援を行うようになって1年半が経っていましたし、そこからさらに3年。正直なところ、人生が違う方向に動き出したなと感じました。ですが、それまでのことを思うと、自分が担うしかないという気持でしたね」

(*1)DMO:Destinetion Marketing/Management Organizationの略。地域の関係者と協力しながら、観光地域づくりを行う組織のこと
(*2)CSR:corporate social responsibilityの略。企業が組織活動を行うにあたり、社会課題への取り組みなどによって社会的責任を果たすこと

支援はいつしか「観光」へ。
後悔しないために決断した石巻への移住。

小学生の頃からボーイスカウトを経験し、社会奉仕やその意義を学んできた斉藤さん。以前より、製薬会社を退職した後は、地域貢献に携わりたいという想いを持っていたという。

「実は、セカンドキャリアとして、シニアJICAで発展途上国の支援に関わるのもいいかなと思っていたんです。ですから、形は違っても人のために自らが役立てるのであれば、という想いで石巻に残りました」

斉藤さんが復興支援員として石巻市役所でまず配属されたのは、秘書広報課。任された業務は「オーラルヒストリー」である。これは、被災当事者や関係者から体験を直接聞き取り、震災の記録を残していくというもの。それまでとは違い、被災者の心の内側に目を向ける関わり方だ。撮影用のカメラを手に、斉藤さんは意を決して被災者のもとを訪ねて歩いた。

「言葉を詰まらせる方、涙が止まらない方もたくさんいらっしゃって、みなさんの心の回復には長い時間が必要だと実感しました。なにより心苦しかったのが、私自身が被災していないということなんです。どうやっても、みなさんの気持ちをすべて理解するのは難しいと思いました」

心を配りながら日々業務に専念する中、石巻市のまちも目に見えて再生していった。それにあわせ、斉藤さんの復興支援員としての役割も「観光」へとシフトしていく。この時期、石巻市の人口は減少する一方で、地域の価値を再確認することも必要だったという。その最終的な目標は、石巻圏DMOの設立だった。

「観光は復興支援の延長線上にあると思うんです。国内からも海外からも観光客を呼び込み地域を盛り上げることができれば、復興にもさらに勢いがつきます。ですので、石巻圏の観光で、なにを見てもらい、なにを感じてもらいたいのか、検討を繰り返しました。
そしてようやくDMOが形になり、いざ始動という際になったんですが、舵取り役に手を挙げる方がいなかったんです。そのとき、私は定年まであと半年というところでした。少なくとも軌道に乗るまではやるしかないなと思い、会社を早期退職して石巻に腰を据えることを決めました。それに、ここで去ったら悔いが残るとも思ったんです」

斉藤さんが30代の頃に起こった阪神淡路大震災。当時、盛岡支店に勤務し岩手医科大学に出入りしていた斉藤さんは、被災地に向かう医師たちと行動を共にしなかったことを今でも後悔しているという。そのときの悔いが、石巻の一員になることを選択させた。

石巻だからこそできる体験を。
感じてほしい、まちの歩みと人のパワー。

本格的に、「観光」で石巻圏に活気を取り戻そうと活動を開始した斉藤さん。

この地域は昔から、仙台平野の肥沃な大地で育つ農作物、世界三大漁場の1つとされる「金華山沖」で獲れる豊富な魚介類など、食の宝庫だ。さらに、沖合に伸びる牡鹿半島の先には、3年続けてお参りすれば一生お金に困らないという言い伝えがある霊場の島「金華山」や、人よりも猫の数が多いとされる「田代島」など、国内外にアピールできる観光資源が豊富にある。

加えて、2019年には、環境省と自治体や地域住民が一体となり、福島県相馬市から青森県八戸市までの全長1,000kmをトレッキングできる「みちのく潮風トレイル」を整備。太平洋沿岸の自然を堪能できる道が完成した。

それらの環境を活かした上で、石巻圏DMOが付加価値として加えているのが「石巻だからこその体験」だ。

「DMOを運営していく上で、震災は切り離せないものです。そこから培った防災学習や、語り部による震災遺構の見学ツアーは欠かせないと思っています。東日本大震災の最大の被災地である石巻がどのように立ち直ったのかを、震災を乗り越えてきた住民のパワーとともに感じていただきたいんです」

豊かな自然と豊かな食。そこから一歩踏み込み地域や人を知ることによって、さらに深く石巻と繋がることができるはず。

この地に足を踏み入れたあの時から、常に被災者の歩調に合わせながら丁寧に信頼関係を築いてきた斉藤さんだからこそ、そう確信できるのだ。

「海の蒼さと、空の青さ、夜空の無数の星。どれをとっても、ここでしか味わうことができないものです。そしてこのまちの歩みも。石巻が観光地として認知してもらうにはもう少し時間が掛かると思いますが、このまちの人たちと一緒に、じっくりとその良さを育てていきたいと思っています」

未来へ繋いでいきたいものは何か?

最後に、斉藤さんが未来に繋ぎたいものを聞いてみた。

 “震災で命を落とした方のためにも、私たちが経験したことを次の世代に伝えていく。石巻の自然の素晴らしさとともに、人の想いを繋いでいく”

「先日、能登半島でも地震と津波で大きな被害が出ました。そのときに私が一番気になったことは、津波の被害はどのくらいだったのか、避難所の生活はどうなのかということでした。ここで復興の過程を見てきたからこそ、その教訓が活かされているのかが気に掛かるんです。
震災で命を落とした方のためにも、私たちが経験したことを次の世代に伝えていかなければならない。今私にできることは観光を通して語りかけることです。自分の生き方に後悔しないように」

私にとって東日本大震災は、未だ映像の中の出来事だ。それに対する後ろめたさのようなものをずっと感じてきたことも事実。だが、斉藤さんの話を聞き、震災から12年が経った今だからこそできる、被災地との繋がり方があると感じた。なにかしなければと思い続けたこの年月が救われるような気がした。美しい景色を眺めたい。おいしい幸もいただきたい。そして、石巻の皆さんの声を聴きたいと思う。