
会津本郷焼の異端にして王道──暮らしに寄り添う「強さ」と「技術」
弓田修司
Shuji Yumita
会津 [福島県]
弓田修司(ゆみた・しゅうじ)
会津美里町本郷出身。流紋焼五代目。碍子製造を生業とする家業を継ぐため、愛知の専門学校へ進学するも、作陶への興味の赴くままに益子へ移住。4年の修業を経て会津へ戻り、窯元の跡を継ぐ。碍子や流紋焼の器の他、建築資材のタイルなどの製造も手掛けている。
「本郷焼といえば」を体現する流紋焼。町の飲食店や土産物店でもよく目にする窯元だが、その起こりは電線を支える絶縁体・碍子の製造だったという。絶縁体製造から焼物を作るに至った経緯、益子焼の作家を目指していた五代目・弓田修司さんが、後を継ぐに至った経緯を詳しく伺った。
電気を支えた「落ちない」守り神

会津美里町の穏やかな住宅街を抜け、学生たちが行き交う通りのほど近くに、ひときわ大きな工房が佇んでいる。 冬の冷たい風が吹き抜ける作業場。その奥で、数種類の釉薬が器の上を流れ落ち、窯の中で紫、青、緑の複雑な紋様を描き出していく。「流紋焼(りゅうもんやき)」。会津本郷焼の中でもひと目でそれと分かる、特徴的な色彩と「流れ」の文様を持つ窯元だ。
迎えてくれたのは、五代目代表の弓田修司さん。 「面倒くさいことには答えられないからね。」 そう言ってニヤリと笑う豪快な語り口の奥には、120年続く窯元の看板を背負いながらも、軽やかに時代を遊ぶ職人の矜持が滲んでいた。
流紋焼の歴史を紐解くと、そこには意外なルーツがある。明治35年(1902年)の創業当時、ここはいわゆる「焼き物屋さん」ではなかった。 「もともとは、碍子(がいし)を作る工場だったんだよ。」 碍子とは、電柱の上で電線を支えている、あの白い絶縁体のことだ。電気を安全に供給するために不可欠なこのパーツも、実は磁器で作られている。

「落ちて人に当たったら死ぬぞってよく言われるけど、一度も落ちたことないよ。」 弓田さんは笑い飛ばすが、その言葉には絶対的な自信が宿る。 碍子に使われる粘土は、通常の食器用よりも遥かに高い強度が求められる。「1.2〜1.3トンの力で引っ張っても割れない」という強靭なスペック。雨風に晒され、高電圧を受け止め続けるその技術力が、現在の流紋焼の器作りにもそのまま活かされているのだ。

昭和30年代に入り、碍子製造の技術を活かして美術工芸品の製作が始まった。 「碍子ばかりでなく美術工芸品みたいなものも作りましょうとなって。それで流紋焼っていう焼物を作ったのが始まり。会津本郷焼は、みんなバラバラなのがスタンダードだから。」 陶器と磁器の両方の原料が採れるこの地では、各窯元が独自のスタイルを持つ。その中で流紋焼が選んだのは、釉薬を掛け流し、その釉薬が窯の中で溶けあい流れる「偶然の文様」を味として活かすスタイルだった。 最初は「フル赤(茶色系)」「ブルー」「均窯(きんよう:緑系)」の3色から始まり、今では50〜60種類ものバリエーションを展開している。
「座学よりろくろ」益子修行から得たものと、技術屋としてのプライド

弓田さん自身、最初から陶芸家を志していたわけではない。 「最初はろくろには興味がなかった。どっちかというと、碍子の技術的なことを勉強したかったんだよね。」 高校卒業後、彼が向かったのは愛知県瀬戸市にある焼き物の専門学校。しかし、そこで運命のいたずらが起きる。 彼が座学で理論を学んでいる隣の教室で、陶芸科の学生たちが自由にろくろを回していたのだ。土の塊が、人の手によって生き物のように形を変えていく。その光景に、心がざわついた。
「自分の手からモノを作るって、いいよな。」 技術者志望だった青年の心に、表現者としての火が点いた瞬間だった。 「どうせやるなら、産地で修行したい。」そう考えた弓田さんは、栃木県の益子(ましこ)へと渡る。益子の窯元へ弟子入りし、4年の修業を積み、24歳の時に父に呼び戻された。 「帰ってきてくんねえかって言われてさ。益子で作家として活動するつもりだったから、ちょっとびっくりしたけどね。」
家を継ぐつもりなどなかった青年は、こうして会津へ戻り、流紋焼の新たな担い手となった。彼が持ち帰ったのは、益子の自由な作風と、「使い手」を第一に考える視点だった。

流紋焼に戻った弓田さんが加えた「自分の色」。それは色彩ではなく「形」の追求だった。 例えば、「納豆鉢」だ。 「益子で修行していた時、水差しを作っていたんだけど、ふと思ったんだ。『これ、取っ手を左手用に付けたら、右手で納豆を混ぜやすいんじゃねえか?』って。」
納豆を混ぜる時、器の縁を持って混ぜると手が汚れたり、滑ったりする。しかし、しっかり握れる取っ手があれば、思い切り混ぜることができる。しかも、注ぎ口が付いていれば、そのままご飯にかけられる。 「俺、納豆好きなんだよ。」と笑う弓田さんの、極めて個人的な、しかし生活者としてのリアルな実感から生まれたこの器は、今や流紋焼の人気商品の一つだ。
また、彼の作る器はとにかく「割れない」ことでも知られる。 「流紋焼の器、割れないですよね?」という問いに、弓田さんは即答した。 「そりゃそうだよ。碍子と同じ粘土を使ってるんだから。」 引っ張り強度1トン越えの磁器土。日常でガチャガチャ洗ってもびくともしない。「使ってもらわないと割れないし、割れないと次が売れないんだけどね。」という冗談めいた言葉の裏には、日用品としての圧倒的な信頼感がある。

街の器屋としての顔を持つ一方で、流紋焼にはもう一つの顔がある。それは、大規模な建築資材のサプライヤーとしての顔だ。 福島県立博物館の手洗い鉢、会津中央病院のタイルなど、会津エリアでもその作を見ることができる。県内ではとどまらず、仙台や大阪、福岡からも依頼があるという。
「設計事務所の人たちが、どこからか聞きつけてくるんだよね。『東北で特殊なタイルを作れるところはないか』って」 しかし、その注文はいつも困難を極める。 焼き物は焼成すると縮む。10センチで作ったものが、焼き上がりには8.5センチになる。その収縮率を計算し、現場の施工寸法に合わせて数ミリ単位で調整しなければならない。 「変な話、余裕が2ミリしかない枠にはめなきゃいけないこともある。しかも、ただ四角ければいいわけじゃなくて。ものづくりやってる人間からしたら、手作りの温かみは残したいからね。」
デザイナーからの無理難題にも、弓田さんは燃えるという。「やってやろうじゃねえか」と。 画一的な工業製品では出せない温かみと、工業製品並みの精度。その両方をクリアできるのは、碍子製造で培った「技術屋」としての土台があるからこそだ。
120年のバトン、「株式会社」としての流紋焼

実は、弓田家が流紋焼の経営に関わるようになったのは、弓田さんの父の代からだ。 「うちはもともと『植松株式会社』という会社で、三代続いた後に民事再生のような形になった。そこで、長年勤めていた親父が社長として引き継いだんだ。」 創業家の血筋ではない。しかし、現場で汗を流してきた職人だからこそ守れるものがあった。弓田さん自身も「五代目」と名乗るが、それは家系図上の話ではなく、この工場の歴史を背負う覚悟の数だ。
だからこそ、自身の後継者問題についても、弓田さんの視点は非常にドライで、かつ温かい。 「子供たちには『継げ』なんて一言も言ったことないよ。彼らは彼らで、それぞれ選んだ道で仕事してるんだから。それが幸せならそれでいいじゃない。」
無理に息子に継がせることに固執しない。「会社として存続できるならそれが一番だし、やりたい奴がいればそいつがやればいい。もし続けることで誰かが不幸になるくらいなら、畳む選択肢があったっていい。」 それは、冷たい突き放しではない。焼き物という仕事の厳しさと面白さを骨の髄まで知っているからこそ、次世代の人生を尊重する、親としての、そして経営者としての深い愛情なのだ。
未来へ繋いでいきたいものは何か?

「碍子はいつかなくなるかもしれない。でも、必要とされているうちは作り続けるし、新しいタイルだって作るよ。」 弓田さんは、時代の変化を恐れない。明治時代、電気を通すために生まれた工場は、昭和には民芸ブームに乗り、平成・令和には建築アートの世界へと進出した。 その姿は、まるで流紋焼の釉薬のようだ。窯の中で熱に溶け、予期せぬ方向へ流れながらも、冷え固まった時には唯一無二の美しい景色となっている。
弓田さんが未来へ繋いでいきたいものは、碍子の強度を引き継ぐ、暮らしに寄り添う器だ。
「見るより、使ってほしいね。口当たりとか、手の馴染みとか、そういうのは使ってみないと分からないから。」 最後にそう語った修司さんの顔は、碍子職人の顔でも、経営者の顔でもなく、純粋な「陶芸家」の顔だった。
強くて、自由で、美しい。 流紋焼の器には、会津の厳しい風雪に耐えながら、それでも明るく笑う職人たちの、120年分の魂が焼き付けられている。