蔵と醸造文化が育んだ喜多方商人の誇り——判断を重ね、未来へとバトンを繋ぐ

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冠木紳一郎

Shinichiro Kabuki

会津 [福島県]

冠木紳一郎(かぶき・しんいちろう)
福島県喜多方市出身。江戸時代から続く醤油・味噌蔵、若喜商店12代目当主。喜多方市観光物産協会元会長。木桶による天然醸造を守り、地元産原料を用いた醤油・味噌作りを続ける。蔵の保存や見学受け入れを通じ、喜多方の蔵文化と商人の暮らしを次世代へ伝える活動にも取り組む。

会津地方の北部に位置する喜多方市は、全国でも有数の「蔵のまち」。その中心部で江戸時代から歴史を刻んできたのが、醤油と味噌の老舗・若喜商店だ。12代目当主の冠木紳一郎さんは、木桶による天然醸造を守り続ける一方、蔵を開放し、喜多方に息づく商人文化と暮らしを伝えている。蔵を建て、商いを続け、時代に応じて判断を重ねてきたこのまちの歩みは、若喜商店の歴史そのものでもある。喜多方の商人が何を守り、未来へ何を繋ごうとしているのか、冠木さんに詳しく伺った。

暮らしのなかにある蔵は、喜多方の心の象徴

まちを歩くと、白や黒の漆喰に覆われた蔵が、日常の風景の一部として点在する。人口約4万人に対し、4,000棟を超える蔵がある喜多方市は、全国的にも稀に見る「蔵のまち」だ。明治時代に見舞われた大火をきっかけに、火事や風雪から財を守る目的で建てられてきた数々の蔵は、人々の暮らしとともに、この地域の文化そのものとして受け継がれてきた。喜多方の観光振興にも深く関わってきた冠木紳一郎さんは、次のように話す。

「男子の志は、蔵を持つこと。そうすることで、初めて一人前の男として認められるという時代がありました。喜多方の人にとって、蔵は心の象徴であり、また当たり前に存在する空気のようなものでもあるんです」

かつてこの地域では、「ーに嫁とり、二に孫もうけ、三に宝の蔵を建て」という歌が詠まれたそうだ。良い縁に恵まれ、家の跡を継ぐ者を決め、象徴となる蔵を築く。それが叶えば家は盤石、男子の一生は成功とみなされた。

その喜多方の観光拠点であるレトロ横丁商店街に、ひときわ目を引くレンガ蔵がある。江戸時代に暖簾を掲げ、長年にわたり醤油と味噌を生業としてきた老舗、若喜商店だ。冠木さんは、その12代目当主である。

守り続けてきたのは、寒仕込みによる天然醸造。全国的にも数少なくなった木桶を使い、約2年をかけてじっくりと発酵を繰り返した醤油と味噌は、香りと旨みが豊かで、故郷の味として親しまれてきた逸品だ。生まれ育った土地のものを食べ、土地の環境とともに生きることで、心身の調和が保たれるという意味の仏教用語、「身土不ニ」の考えにならい、素材に使用するのは、地元産の大豆と小麦のみ。蔵に棲みつく菌の発酵力を妨げないよう、保存料や添加物は一切使用していない。

「質の良い醤油と味噌ができるのは、なにより、良い水に恵まれているからです。おかげで、喜多方は古くから醸造や発酵文化が盛ん。今もまちには、銘酒を仕込む9つの酒蔵と6つの醤油味噌蔵が並びます」

水と蔵、人の往来が育てた喜多方の醸造文化

会津盆地の北に位置する喜多方は、風水害などの自然災害が少なく、東北地方でも比較的温暖な地域だ。そのなかで、人々の暮らしや産業を支えてきたのが、豊かな水である。源となっているのは、飯豊連峰をはじめとした喜多方を囲む山々。冬に積もった雪は地下深くまで染み込み、伏流水となって地域全体を潤してきた。この水こそが、醤油や味噌、日本酒の醸造に適した環境を作り出している。

さらに、醸造文化の発展に欠かせなかったもう一つの要が、蔵である。

「蔵はもともと財産を守るための建物ですが、結果的に醸造にとっても理想的な環境でした。夏の暑さや冬の寒さを和らげ、ゆっくりと発酵を進めてくれる蔵は、生活の場であると同時に、ものづくりの場でもあったんです」

加えて、人の往来も忘れてはならない。会津地方の中心都市である会津若松は、歴史的に見ると、政治的、文化的にこの地域の核を担ってきた。一方、その北にある喜多方は、城下町を支える商業と交通の要所として発展し、両者は古くから密接な関係を築いてきた。とりわけ喜多方は、地理的には新潟との結びつきが強く、そこを経由して多くの物資や人材が流入し、醸造や発酵の技術が広まっていった。酒づくりに欠かせない杜氏も、その多くが新潟から招かれたという。

「ですが、戊辰戦争で会津藩が敗れ、それまで築いてきた故郷の文化は一度途絶えてしまいました。城下町として栄えた会津若松からは武士が姿を消し、商人も自信を失ったんです。

そこで立ち上がったのが、喜多方の商人たち。これからは自分たちが会津全体を牽引していこうという気概で、商いの力を結集したんです」

その象徴的な取り組みが、鉄道の誘致である。1904年、会津若松まで延びてきた鉄路をさらに延伸する計画が持ち上がった。それを引き寄せたのが喜多方の商人たちである。彼らは資金を出し合い、誘致活動を成功に導いた。鉄路の開通によって、人と物の流れは一変。醤油や酒といった産物は遠方へと運ばれ、喜多方は会津地方の商業拠点として存在感を高めていったのだ。

続いて、商人たちは水力発電所や製糸工場の建設など、殖産興業にも力を注いだ。まちを豊かにするために何が必要かを考え、実行に移す。その積み重ねが、現在の喜多方の基盤を形づくっている。

時代を見据え新たな選択を恐れなかった、喜多方商人の気概

喜多方の商人文化を振り返るとき、そこに一貫して流れているのは、時代に応じて新たな商いの形を見出し、まちを守るという姿勢だ。蔵を建て、醸造を営み、鉄道を引き、産業を興す。いずれも目先の利益ではなく、次の時代を見据えた選択だった。若喜商店の歩みは、こうした喜多方商人の歴史を、そのまま家業に重ね合わせたものといえる。

「江戸時代には、自らの土地で育てた農作物を原料に醤油を仕込んでいたんです。ですが、時代が進むにつれて、その前提が大きく揺らぎました。戦後の農地解放で多くの土地を失い、従来通りの商売を続けることが難しくなったんです」

そこで選んだのが、ビール問屋としての道だった。家庭に冷蔵庫が普及し、ビール消費が拡大した高度経済成長期、この選択は家業を支える大きな柱となったという。

「ただ、時代の変化で安売り競争が激しくなり、それを機にビール問屋業からは身を引きました。醤油と味噌の醸造だけに、再び軸足を戻したんです」

この「引く」という選択は、容易なものではなかったはずだ。だが、若喜商店をはじめ喜多方の商人たちは、重要な判断を幾度となく繰り返してきた。戊辰戦争後もしかり、まちを存続させるために何を選ぶのかという判断を、他人任せにせず自分たちで引き受けてきたのである。

そうした繰り返しは、若喜商店の建物にも色濃く表れている。敷地内には現在8棟の蔵が残り、そのうち2棟は1904年に建てられたレンガ蔵だ。この蔵は、鉄道建設期に喜多方で発展したレンガ産業と深く結びついており、瓦づくりの技術を転用して生まれたレンガを蔵建築に活かしている。喜多方で最初に造られたレンガ蔵で、この木の骨組みにレンガを積む造りは耐震性にも優れ、東日本大震災でも大きな被害はなかったという。

さらに、客間として造られた住まいの蔵は黒柿や欅といった高級木材が用いられ、商家の誇りとともに先人たちの文化を今に伝えている。道具蔵の1階の展示室には、季節ごとに、古くから伝わる雛人形や、鎧兜、旗指物が飾られ、国内外からの見学客を迎える。女の子の健やかな成長、男の子の出世を願う飾り物とともに、幼い頃の冠木さんの写真も展示されているそうだ。

「もちろん、蔵を守り続けるには維持費もかかり、それなりの覚悟も必要です。とはいえ、国登録の有形文化財でもある蔵を次の世代に残していくことは、私の心の支えでもあります。しかも、ここまで続いてきた以上、逃げるわけにもいきません。辛抱強く真面目な会津人の気質が、そうさせるのかもしれませんね」

笑顔で話す冠木さんの言葉には、穏やかで誠実な喜多方商人のぬくもりも感じる。どんな苦境に置かれても、冷静に状況を見極め、歩むべき道を進んでいく。その結果が、長年の歴史の厚みに繋がっているのだ。

未来へ繋いでいきたいものは何か?

最後に、冠木さんに未来へ繋いでいきたいものは何か、と尋ねた。

「やはり、喜多方に暮らす人たちの“誇り”でしょうか。それを持ち、互いに心豊かに暮らしていくことですね」

便利さや刺激に満ちた都会とは違い、喜多方には自然を享受し、手間を惜しまずものづくりを続けてきた暮らしがある。時代に応じて商いの形を変えながらも、根本にある商人としての信念を見失わない。その積み重ねこそが、このまちに暮らす人々の誇りを生み出しているのだ。

「最近では、海外からのお客様も増えています。喜多方の自然や文化、商人の心意気に触れることで、ご自身の感性を磨き、視野を広げていただけたら嬉しいですね。

今このまちには、喜多方ラーメンという新たな食文化も生まれています。ラーメンを食べて、腹ごなしに蔵を見て歩く。そんな楽しみ方もおすすめです」

蔵を守り、文化を紡ぎ、商いを続けるその姿勢の根底にあるのは、未来への一歩を判断する覚悟だ。冠木さんの表情には、先人たちから受け継いできた歴史のバトンを次の世代へ繋いでいこうとする、揺るぎない意志と静かな希望がにじんでいる。