
150年絶えない炎──激動の時代を生き抜く、伝統工芸の生存方程式
西田理人
Michito Nishida
会津 [福島県]
西田理人(にしだ・みちと)
福島県会津若松市出身。酔月窯五代目。数学教師として働いていたが、四代目の祖父を亡くした一族に請われ、窯元の跡を継ぐ。酔月窯の伝統の器づくりを引き継ぎながら、独自に開発した「メルヘン釉薬」を使用したデザインを開発。窯元運営の傍ら、文章の才能を活かし作家としても活動中。
会津美里町の小路の奥に、古いレンガ造りの大きな煙突が顔を出す。今はもう使われていないその煙突は、それでもかつての焼物ブームの隆盛を感じさせる。焼物業界の栄枯盛衰を経験してきた酔月窯の歴史と生き残り戦略について、五代目・西田理人さんにお話を伺った。
武士が捨てた刀、大火に消えた栄光

引き戸を開けると、ガラスのショーケースの中に、さまざまな器が静かに並んでいる。鹿の子模様、身しらず柿、麦の穂。会津の風土を写し取った文様は、華美ではないが、どれも確かな存在感を放っている。奥の棚には雰囲気をガラッと変え、どれも1点ものだという猫の器が整然と並ぶ。さらに視線を上へと向けると、青空や雲を思わせる華やかな器たちが壁際を彩る。
「いろいろ作ってきたからね。」 穏やかに笑うのは、五代目当主・西田理人さん。 その語り口は、職人特有の頑固さとは無縁の、論理的で明快なものだ。それもそのはず、彼はかつて教壇に立ち、数学を教えていた元教師なのだから。 明治3年から続く窯の炎を、どう守り、どう変えてきたのか。そこには、歴史という名のロマンと、経営という名のリアルが交錯する、極めて現代的な伝統工芸の戦い方があった。
酔月窯のルーツは、戊辰戦争の敗北にある。 初代・西田三九郎は、会津藩士だった。武家社会が崩壊し、生きる術を失った彼は刀を置き、本郷の地で土を捏ねる道を選んだ。明治3年(1870年)のことだ。 武士の気概は、焼き物にも表れたのだろうか。明治10年、国内版万博とも言える「内国勧業博覧会」で、三九郎の作品は見事、金賞を受賞する。賞状の左端には「大久保利道」の名が刻まれており、歴史の重みを無言で伝えている。
しかし、その栄光の受賞作そのものは、もうこの世にない。 大正5年、本郷を襲った未曾有の大火。町内400軒のうち半数が焼失したこの火災で、作品は行方不明となった。
火が迫る中、展示されていた作品を確かに避難させたはずだという。しかし、火が収まったあとにはどうしても見つけることが出来なかった。「とても大きな火事で、大混乱だったみたいだからね。どの場所に移したか知ってるって言ってた人もいたんだけど、その人も亡くなってしまってね。飴釉の火鉢だったらしいんだけど……。」受賞の際の賞状は今も大切に壁に飾られているが、受賞作がどんな形で、どんな佇まいだったのか。今となっては誰にも確かめようがない。
「大久保陶石」と「酔月呉須」

時代は下り、四代目・善彦(西田さんの祖父)の時代。彼は「酔月の中興の祖」と呼ばれるにふさわしい人物だ。 「焼き物の世界は、できては消えての繰り返し。生き残るにはどうすればいいか。」会津人らしからぬ、人懐っこさと行動力。ズーズー弁のままどこへでも出向き、誰とでも打ち解ける。その人柄と営業力は、研究者であり、同時にビジネスマンでもあった。
善彦は全国の産地を歩き回り、徹底的なリサーチを行った。その結果たどり着いたのが、地元・大久保で採れる陶石だった。 この石は磁器の原料だが、陶器の性質も併せ持つ。所謂磁器のように真っ白にはならず、少しグレーがかった独特の地肌になる。しかし、比重が軽く、厚手に作っても重くならない。 「だから、丈夫なんです。日常使いには最適の厚みが出せる。」
また酔月窯を語るうえで欠かせないのが、「酔月呉須」だ。会津若松市・八日町の鉄分を多く含んだ土を原料に、窯元自ら調合するこの呉須は、青とも黒ともつかない、墨を含んだような深い紺色を持つ。「他の土でも色々試してみたんだけど、同じ色にはならないんだよね。」大久保陶石と酔月呉須、このコントラストこそが、酔月窯の代名詞となった。
閉窯の危機。数学教師、30年の「生存戦略」

偉大な祖父を持つ西田さんだが、当初は家を継ぐつもりはなかった。 「祖父自身が『これからは焼き物じゃ食っていけない』と、別の進路も考えるように言っていたんです。」 現実的な選択として数学教師の道へ進んだ。県内の高校で教鞭を執り、安定した生活を送っていた。
しかし、運命は彼を放っておかなかった。祖父が亡くなり、後を任されていた親族も高齢で引退。「従業員を抱えたまま、窯を潰すわけにはいかない」。一族会議の末、白羽の矢が立ったのが、当時教師になって3年が経っていた西田さんだった。 「まあ、先生よりはこっちの方が合ってたかな。なにより、可愛がってくれた祖母から、『祖父と一緒に二人三脚でやった窯元を閉めるのは忍びない』って言われちゃね。」と彼は笑うが、35年前の就任当時、状況は厳しかった。かつて100人近くいた従業員も減り、バブル崩壊後の不況が焼き物業界を直撃していた。
ここで、元数学教師の理性が光る。 「職人として技術を磨くのは当たり前。でも、一番大事なのはマネジメントじゃないかな。」 彼は言い切る。芸術性の追求よりも、まずは会社を存続させること。借金をどう返すか、売上が落ちる中でどう舵を切るか。 「食べることに汲々としすぎると、作りたくないものまで作らなきゃいなくなる。自分たちが『いいな』と思えるものを作り続けるためには、経営が健全でなきゃいけないんです。」

経営を安定させるための「武器」として、西田さんが開発したのが「メルヘン釉薬」だ。 伝統的な渋い酔月窯のイメージとは真逆の、パステルカラーや鮮やかなブルーを使った洋風の器。筆で釉薬を塗り重ね、ムラを作ることで、まるで空や雲のような表情を生み出す。
「絵付けは時間がかかるんです。うちには腕のいい絵付け職人がいますから、私がそこで時間を取られるよりは彼らに任せて、窯の運営に時間を割いた方が良い。とはいえ、焼物職人として釉薬で勝負したいってところもあって。釉薬は絵付けより時間が取られないからちょうどいいでしょ?」これは、単なる思いつきではない。工数管理と市場ニーズを分析した上での、戦略的な一手だ。「これが売上のメインにはなりません。でも、イベントなどで『酔月らしくないもの』を求められた時、これが強力なフックになる。」 実際、このシリーズを目当てに訪れる若いファンも増えた。伝統を守るための、革新。それは、もともと芸術家肌であった彼のクリエイティビティが、数学的な計算の上で開花した瞬間でもあった。
酔月窯の面白さは、器だけではない。 「これ、見てください。大天狗の面の酒瓶です。」 かつて土産物として爆発的に売れたという天狗の面を模った酒瓶。実はこれ、ボディは焼き物でできている。 福島県本宮市の酒蔵「大天狗酒造」からの依頼で、この天狗面を納品しているというが、面白いのはその製造工程だ。 「うちはボディを作って、下地の色を塗るまで。最後の『目を入れる』作業は、酒蔵の従業員さんたちがやっているんですよ。」
冬場の酒造りが忙しい時期はともかく、手が空いた時間にみんなで天狗の目を入れている……そんな光景を想像すると、思わず笑みがこぼれる。 「円安の影響か、今は海外の人に大好評だそうですよ。」 産地の中で仕事が回る。予期せぬところでヒットが生まれる。そんな偶発性もまた、長く続けてきたからこそ出会えるご褒美なのかもしれない。
未来へ繋いでいきたいものは何か?

西田さんが語る酔月窯の未来は、‘‘続けていくこと”そのものだという。培われ、継承されてきたもの。時代にあわせて取り入れたもの、手放したもの。そのすべてが窯元が歩んできた生きた歴史だ。「酔月は一つの文化だと思っているんです。」 伝統を受け継いでいくことばかりではなく、生き残るために変化し続けること。そのプロセスの総体が「酔月」という文化なのだ。
西田さんが未来へ繋いでいきたいものは、どんな時代も生き抜いていく、「酔月」という文化だ。
「次は娘が継ぐことになっています。かつては『男じゃないと』と言われた時代もありましたが、今はそんなことありませんから。」 祖父が全国を歩いて技術を持ち帰ったように。元数学教師の自身がマネジメントで窯を守ったように。次の世代もまた、彼女なりのやり方で、この窯の火を繋いでいくのだろう。
150年前、武士が刀を捨てて掴んだ土。 その土は今、論理と感性、そして経営という新たな武器を混ぜ合わせ、かつてないほど自由に、しなやかに、形を変えようとしている。 酔月窯の器を手に取る時、私たちは単なる食器ではなく、生き残るために進化を続けた「知恵の結晶」に触れているのだ。