
閑かに在り続ける―変幻自在な器たちと、変わらない“日常”
手代木崇 幸右衛門
Kouemon Takashi Teshirogi
会津 [福島県]
手代木崇 幸右衛門(てしろぎ・たかし こうえもん)
会津美里町出身。会社員を経て、先祖代々続く窯元の跡を継ぐ。十一代目手代木幸右衛門。コーヒーが好きで、自身のお気に入りの作品は、鎬の形状を利用して作ったコーヒードリッパー。支えを作るため溶接まで習得してしまうほどのこだわりよう。
焼物の里、会津美里町・本郷。入り組む路地の傍らに、文字通り埋もれるように閑山窯の工房がある。窯元の特徴は「ない。」と言い切りながらも、300年続いてきた理由とは何なのだろうか。十一代目・幸右衛門さんにお話を伺った。
武士の六男坊と、公務員としての陶工
会津本郷の町を歩く。 焼き物の里と聞いて想像するような、観光地特有の喧騒はない。あるのは、冬の澄んだ空気と、生活の匂い。 その静かな小路の傍らに、当たり前のように窯があり、当たり前のように器が並んでいる。 「閑山窯(かんざんがま)」。 その看板を掲げる工房は、一見すると普通の民家のようだ。しかし、その足元には、ツルハシ一本で掘り抜いたという「秘密基地」が隠れている。

迎えてくれたのは、十一代目当主、手代木崇さん。 「窯の歴史?だいたい300年くらいですかね。きっちり何年からっていうのは、分からないんですよ。」 飄々とした語り口。300年という重厚な歴史をさらりと口にしながら彼は、「まあ、だいたい」と笑う。 この飾らなさ、曖昧さ。それこそが、激動の会津の歴史を生き抜いてきた、閑山窯のしたたかな生存戦略だった。
閑山窯の歴史の始まりは、江戸時代中期、享保年間(1716〜1736年頃)まで遡る。 しかし、その起源は霧の中だ。 「初代は『孫六(まごろく)』という名前だったそうです。おそらく6番目の子供だったんじゃないかな。」 手代木さんは、伝承の糸を手繰り寄せるように語る。 初代は、鶴ヶ城に仕える武士だったと言われている。しかし、長男ではなかったため家督を継がず、あるいは殿様の命を受け、刀を置いてこの地で土を捏ね始めた。
「昔は『藩の窯』だったので、今で言う公務員みたいな感じだったんじゃないですかね。」 この言葉が、閑山窯の性格を決定づけている。 彼らは、自分の芸術性を爆発させる「作家」として始まったのではない。藩が必要とする器を、必要なだけ作る「実務家」として始まったのだ。 だからこそ、代々受け継がれる「幸右衛門(こうえもん)」という名跡も、襲名したりしなかったりと緩やかだ。 「二代目が最初に名乗って、三代目も幸右衛門を名乗ったけど、うちの親父は名乗ってない。『勝手に名乗ればいいよ』なんて適当なかんじで。」 名前に固執しない。形式に縛られない。重要なのは「器を作り続けること」そのもの。その実用主義の精神は、武士から陶工へと転身した初代・孫六のDNAなのかもしれない。

閑山窯は、時代に合わせてカメレオンのように姿を変えてきた。 創業当初は陶器を焼いていたが、四代目のころに会津本郷で磁器作りが始まると、それに倣い磁器へと切り替えた。
しかし、明治、大正と時代が下り、手代木さんの祖父の代で窯の場所が大きく変わった。 「昔はお城の公園のあたりに登り窯があって、そこでやっていたみたいなんですが、この場所に移動してきたんですよ。」祖父が選んだのが、現在の場所だった。 「ただ、作るスペースがなかったから、地下を掘ったんです。」
玄関の脇にある階段を降りると、そこには異空間が広がっていた。 ひんやりとした空気。そして、壁一面に埋め込まれた無骨な石、石、石。 「掘ってたら石がいっぱい出てきたから、それをそのまま建材にして壁にしたみたいです。」 まるで秘密基地か、古代の遺跡か。 祖父がツルハシとスコップで掘り抜いたこの地下工房は、夏は涼しく、冬は温度が安定している。土を保管し、ろくろを回すには最適な環境だ。 「ここでお客さんの陶芸体験もやるんです。みんな驚きますよ。」 この地下空間こそが、閑山窯の不屈の精神を象徴する「聖域」なのだ。
「特徴がない」ことの豊かさ──溶接と古材とコーヒードリッパー
「閑山窯の特徴ですか? うーん、特にこれっていうのはないですね。」 手代木さんは、さらりと言ってのけた。 多くの窯元が独自の釉薬や特徴的な技法を挙げる中で、この言葉は逆に耳に残る。
「毎回、窯を焚くたびに色々やってるんです。原料の配合を変えたり、釉薬を試したり。」 ある時は、鶴ヶ城の赤瓦と同じ色を出すために、酸化焼成と還元焼成を使い分けて渋い赤色(赤瓦釉)を作り出す。 ある時は、地元・会津美里町の花である「あやめ」を絵付けした壺を作る。 またある時は、ぽってりとした柔らかな青磁の釉薬で、丸みのある器を作る。
特徴がない、というのは「何色にでも染まれる」ということだ。 それは、かつて藩の命により必要なものを作ってきた「公務員陶工」としての柔軟性であり、現代においては、多様化するライフスタイルに寄り添うための武器となる。

そんな中でふと目に留まったのが、昔ながらの急須だ。 「『デベソ』って呼んでるんですけどね。」 急須の注ぎ口を見ると、内側に金属製の茶こしではなく、急須のボディそのものがポコッと突起し(デベソのように)、そこに穴が開けられ、その上から注ぎ口が被せられている。 金属の茶こしを使わない、昔ながらの知恵。 「言われてみれば、これは昔から作ってるから特徴といえばそうかな。」 手代木さんは事も無げに笑うが、その「デベソ」には、使いやすさを追求してきた職人の手仕事が確かに息づいている。
「これ、見てください。僕が作ったんです。」 工房の一角に置かれていたのは、無骨ながらもスタイリッシュなコーヒードリッパーだ。 アイアンのフレームに、味のある木の土台。 「コロナの時期、コーヒードリッパーを作りたくなって。時間があったので、溶接を覚えたんです。」 なんと、鉄のフレーム部分も自作だという。

さらに驚くべきは、その土台の木材だ。 「これ、昔の『手板(ていた)』なんです。ろくろで挽いた器を乗せておく板。昭和初期のものかな。」 使い込まれ、反り返り、ひび割れた古い板。普通なら捨ててしまうような廃材を、手代木さんは「味がある」と再利用した。 「綺麗すぎるより、こっちの方がいいでしょ?」
コーヒー好きの彼が、自分のために作ったドリッパー。 鉄を溶接し、古材を切り出し、そしてもちろん、上に乗るドリッパー部分は自らの手で焼いた陶器だ。 溝の深さや角度も、コーヒーの味が一番良くなるように何度も試作を重ねた。 「最近作ったのは、もう少し溝を深くしてみました。出が悪いと嫌だから。」
この自由さ。この軽やかさ。 「伝統を守る」といって肩肘を張るのではなく、自分の暮らしを豊かにするために、持てる技術を全て使う。それが閑山窯の流儀なのだ。
一度離れて、戻ってきた場所

手代木さんは、最初から陶芸の道を志していたわけではない。 「反発して、一度はやりませんでした。会社員として働いていましたから。」 家業を継ぐことへの抵抗。それは、多くの伝統工芸の跡継ぎが通る道だ。 しかし、転機は突然訪れる。勤めていた会社の経営状況が悪化し、実家へ戻る決断をした。 「身の回りに変化があって、やっぱり窯をやらなくちゃいけないのかな、と。」
ドラマチックな決意表明があったわけではない。流れに身を任せるように、彼は地下工房へ戻ってきた。 「小さい時から土には触っていたので、作ること自体はすんなりできました。修行? 特にないですね。」 20年のブランクを感じさせないほど、身体が覚えていた。 それは、地下の工房で祖父や父の背中を見て育った彼の中に、陶工としての血が静かに、しかし脈々と流れていた証拠だろう。
未来へ繋いでいきたいものは何か?

「お客さんには、どんなシーンで使ってほしいですか?」 その問いに、崇さんは即答する。 「日常以外、ないですからね。」
朝のコーヒーを飲むマグカップ。夕飯の煮物を盛る小鉢。お茶を淹れる急須。 手に取ると、ふっと馴染む軽さがある。 「お客さんからは『軽いね』ってよく言われます。意識してるわけじゃないんですけど。」 結果として、使いやすい。結果として、軽い。 それは、狙って出した特徴ではなく、300年間「使われる器」を作り続けてきた歴史が導き出した、必然の答えなのかもしれない。
工房の棚には、父が作ったという家紋入りの湯呑みや、梅の花を象った小皿が並ぶ。 そしてその横には、手代木さんが作ったモダンなドリッパーや、ワイングラスのようなビアマグが置かれている。 世代も作風も違うけれど、不思議と統一感がある。 それは、どちらも「誰かの日常を少しだけ豊かにしたい」という、共通の思いで作られているからだろう。
「未来? そうですね……続けていくこと、でしょうね。」 手代木さんは、大きな野望を語らない。 SNSも「苦手です」と笑い、発信には消極的だ。 しかし、その言葉には重みがある。
3ヶ月に一度、窯を焚く。 そのサイクルを守り、地下の工房でろくろを回す。 石垣の壁に囲まれたその場所で、彼は今日も土と対話している。 「知名度が上がって、観光客が来てくれれば嬉しいですけどね。」
手代木さんが未来へ繋いでいきたいものは、変幻自在な器と、閑山窯として在り続けることだ。
派手なアピールはない。強烈な個性もない。 けれど、閑山窯には「変われる」という強さがある。 武士から陶工へ。磁器から陶器へ。そして、鉄や木との融合へ。 時代という波に合わせて、形を変えながら、それでも「閑山窯」であり続ける。
300年前、刀を捨てた孫六も、ツルハシで地下を掘った祖父も、そして溶接マスクを被った手代木さんも。 彼らが守りたかったのは、名声でも形式でもなく、この会津本郷の地で、土と共に生きるという「日常」そのものだったのかもしれない。
帰り際、地下工房から地上へ上がると、冬の陽射しが眩しかった。 特徴がない、という最強の武器を持って。 閑山窯はこれからも、私たちの暮らしの中に、静かに、当たり前のようにあり続けるだろう。