三国三味線とともに紡ぐ花街の記憶。三国湊に生きる名取・芳村竹世志の歩み

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長沼 慶江

Yoshie Naganuma

坂井市 [福井県]

長沼慶江(ながぬま・よしえ)
東京・神田神保町出身。第二次世界大戦中、父の故郷である福井県三国町へ疎開し、その後、三国で暮らす。20代で結婚後、三味線と出会い地元の師匠の元、本格的に修行を開始。14年後に「七代目 芳村伊十郎(人間国宝)」より、名取「芳村竹世志」の芸名を授かる。これまでに100名以上の弟子を育て、三味線の継承と後進の育成に力を注いでいる。

江戸時代から続く港町・三国湊。格子戸の町家が連なる路地に、今も軽やかな三味線の音色が響く。その音の主は、三味線の名取「芳村竹世志」として知られる長沼慶江さんだ。花街として栄えた三国湊の最後の時代を知り、65年以上にわたり三味線とともに生きてきた。このまちで受け継がれてきた花街文化とその記憶を、未来へ繋ごうとする一人の女性の歩みをたどる。

三味線とともに受け継いだ花街の文化

三国湊に残る、風情あふれる町屋の数々。江戸時代から続く街並みを歩くと、どこからともなく軽やかな三味線の音色が聞こえてくる。その音を辿るように路地を進むと、一軒の町屋に行き着く。暖簾をくぐると、凛とした佇まいで三味線を奏でる女性。三味線の名取「芳村竹世志」として、その伝統を受け継ぐ長沼慶江さんだ。20代で結婚して以来、三味線のある暮らしを送っている。

「三国湊は花街(※)として栄えた地域で、私が嫁いだ頃は、通りを歩いているだけで、芸者さんが弾く三味線がよく聞こえてきたものです。その音色がなんとも魅力的で。

そんなある日、近所で三味線を手放すという芸者さんからそれを譲り受けたんです。お舅さんにお願いし、お稽古に通わせてもらえることになりました」

家制度がまだ厳しかった当時、嫁いだ女性が家の商いや家事以外で自由に出歩くことは難しかった。三味線を続けるためにも、長沼さんは嫁としての務めに一切手を抜くことはなかったという。それほどまでに、三味線に心酔していたのだ。

長沼さんが三味線を始めた頃は、三国湊が花街として賑わいを見せた最後の時代にあたる。それでも三味線や唄といった芸事を稽古する検番には、20人ほどの多くの芸者が集っていたという。長沼さんは、厳しい稽古のなかで一層その音色に引き込まれていった。

そして14年後、名取の免状を得て「芳村竹世志」という名を授かる。やがて弟子を迎え、自らも師として指導を始めるようになった。これまでに育てた弟子は100名を超え、名取に育った者は12名に上る。さらに、そのうち3人は、三国三味線の担い手として次世代の育成に力を注いでいる。

(※)花街:芸者や遊女が、唄や踊り、三味線などの芸事を通して客をもてなした歓楽文化のまち。

花街の風情を今に伝える三味線の音色と唄

長沼さんが「音」に興味を抱いたのは、小学生の頃。教室で先生がオルガンを奏でるたび、その音の不思議な魅力に心が躍った。自らも奏でてみたいと思ったのは自然なことだった。しかし当時は、戦後間もない混乱期。多くの家庭が日々の暮らしに精一杯で、「オルガンを買ってほしい」と親に頼める状況ではなかったという。そこで、放課後のわずかな時間、教室のオルガンに触れさせてもらった。

振り返れば、その頃からずっと「音」を探し求めていた長沼さん。三味線の音色に心奪われたのは、幼い頃に胸躍らせた「音」との再会だったのかもしれない。

長沼さんの出身は東京。江戸時代に多くの武家屋敷が並んだ神田神保町で生まれ、生粋の江戸っ子として育った。だが第二次世界大戦が始まり、身の安全を考えた一家は、父親の故郷である福井県三国へ疎開する。当時、長沼さんは小学1年生。それ以降、人生のほとんどをこのまちで過ごしてきた。

三国町は福井県北部の坂井市にあり、漁業が盛んな日本海に面した港町だ。江戸から明治にかけて、北前船(※)の寄港地として栄え、日本海交易の要衝として全国各地と結ばれていた。そのため、商人文化と独自の気質が育まれ、併せて花街が形成された。長い航海の途中で立ち寄った船乗りと遊女の、短くも儚い恋物語も多く生まれたことだろう。当時の様子に想いを馳せながらまちを歩けば、その繁栄を今に伝える町家や格子戸の建物が、さらに情緒豊かに目に映る。

「花街の最盛期であった江戸時代には100人ほどの遊女がいたそうです。三国の人口が約1000人でしたから、いかにその数が多かったかが分かると思います。言い換えれば、それだけ船乗りの出入りが多かったということですね。芸者の数も、遊女と同じくらいだったそうです」

花街には芸事が欠かせない。芸妓や芸者が身に付け、お座敷で披露する踊りや唄・三味線や太鼓などの芸事は、花街の発展とともに深く根付いた。また、茶道や礼儀作法も、客をもてなす文化として高く評価され受け継がれてきた。なかでも、三国湊の伝統として現代まで受け継がれているものの1つに、三味線と唄がある。

「私が指導しているのは、長唄・小唄・端唄が主です。歌舞伎などで唄われる長唄は一曲が20分以上に及びますが、小唄や端唄は長くても3分ほど。三味線に初めて触れる方にとっては、弾くながら唄うにはちょうど良い長さなんです」

小唄や端唄は、江戸後期に生まれた流行り歌で、三味線を奏でながら男女の情や季節の風物を唄ったものが多いとされる。とりわけ、お座敷文化と深く結びついたことから、江戸で繁栄した「吉原」や「深川」などの花街を舞台にしたものが中心となっている。

「歌詞のなかには、江戸のまちの粋な文化や艶っぽさを感じる節が随所に出てくるんです。例えば端唄『深川』では、侍が船で川を渡り、そこから駕籠に揺られて吉原に向かう様子が描かれています。美しい遊女に会いに行く、その高揚した気持ちを唄っているんです」

唄を聴くと江戸の景色が浮かび上がり、三味線の音色がその情景をさらに鮮やかにする。三味線は、かつての花街の空気を今に伝える力を持っているのだ。

(※)北前船:江戸時代から明治時代にかけて日本海を往来し、各地の物資と文化を運んだ大型商船。

日本を感じる、独特の音色を響かせる三味線の魅力

現在、長沼さんのもとには、40代から80代までの弟子が集う。「私も80を過ぎましたので、表に立つことは控えるようになりました」と話すが、その教えを請い慕う者は後を絶たない。弟子の多くが、40歳を超える頃に入門するという。人生の折り返しを迎えた頃に、なぜ三味線に惹かれるのか。長沼さんはその魅力をこう説明する。

「やはり、日本にしかない、その独特な音色でしょうね。弦楽器は海外にもたくさんありますが、三味線の興味深いところは、棹に指を当て、自分で音を探していくところ。ギターのようにフレットがないので、感覚を頼りに良い音を見つけていくんです。難しい分、自由で楽しさもあるんですよ」

加えて、三味線は使われている材質によっても音色が大きく異なるという。長沼さんが長年愛用しているのは、「紅木」で作られた三味線だ。その木目は非常に細かく、水に沈むほど年輪が詰まっている。特に、音を左右する棹にどんな木が使われるかによって、撥を当てたときの音の良し悪しが決まるのだそうだ。その深みのある音色は、今や海外からの観光客も魅了しているという。

「三味線体験には外国の方もたくさん訪れます。片言の日本語を交えながら、熱心に日本の文化に触れようとする姿はすばらしいですね。

それから、この町屋にも関心を示してくださいます。畳敷きの座敷やそこから望むお庭、障子などの建具からも、日本の伝統を感じ取っているようです」

先人たちの営みを感じる町家で体験する、三味線と唄。その空間で過ごすひとときは、日本の文化や日本人の心に触れる貴重な機会となっているようだ。

未来へ繋いでいきたいものは何か?

最後に、長沼さんに未来へ繋いでいきたいものは何か、とお聞きした。

「三国が好きな方に、三国三味線を受け継いでいってほしいですね。

私も年齢を重ね、この先どれくらいの方に三味線や唄をお伝えできるかは分かりません。できれば、弟子のうち一人でも、これまで続いてきた文化を次の世代に繋いでくれれば…。江戸時代からの歴史を絶やすことなく未来にも残したい。それが私の願いです」

そう語った後、長沼さんは端唄「深川」を披露してくれた。

「チョイナ

猪牙(船)で行くのは深川通い

渡る桟橋を アレワイサノサ 

いそいそと 客の心はうわの空 

飛んで行きたい アレワイサノサ 主のそば

チョイナ

駕籠で行くのは吉原通い

上がる衣紋坂 アレワイサノサ 

いそいそと 大門口を眺むれば 

深い馴染みの アレワイサノサ お楽しみ」

年齢を感じさせない張りのある歌声と、軽快で華やかな三味線の音色。そして、長沼さんの穏やかな笑顔からは、60年以上ともに歩んできた三味線への深い愛情を感じる。

三味線の音が響く限り、三国湊の「粋」が失われることはないだろう。その音色は、このまちの未来をそっと照らす灯のように続いていく。