
伝統を紡ぎ、新たな可能性も追求——人々を惹きつける錦山窯の魅力とは
吉田幸央
Yukio Yoshita
小松市 [石川県]
吉田 幸央(よした・ゆきお)
石川県小松市出身。九谷焼窯元、錦山窯4代。金沢美術工芸大学工芸科卒業後、石川県立九谷焼技術研修所に入学し、在学中に「朝日陶芸展奨励賞」を受賞。30歳を前に錦山窯に入り、2009年に錦山窯4代となる。九谷焼の伝統を継承しつつ新たな技法を追求する姿勢から、現代の九谷焼作家の代表と言われる。色を塗り重ね、金彩を施す独自の技法で表現した作品は、水彩画のように美しく、洗練されたモダンな印象も持つ。
九谷焼の産地、石川県小松市にある錦山窯。約120年の歴史で築かれた「金彩」の技法によりつくられる作品は、日本人はもとより、海外の方をも魅了する。その奥深い美しさの根底にある、作り手の想いやこだわりはどのようなものなのか。錦山窯4代、吉田幸央さんに話を伺った。
九谷焼のまちで「金彩」を得意とする錦山窯
石川県小松市は、北陸新幹線の停車駅でもある金沢駅から車で40分ほどの距離にある、人口10万人ほどのまちだ。
この地では、古くからものづくりが盛んに行われており、中でも日本を代表する伝統工芸「九谷焼」に関わり生計を立てている人が多い。九谷焼の材料となる原石は、地元の「花坂陶石山」から採掘され、その原石から焼き物の素材となる粘土を生成する製土所は、ここ小松市に所在している。さらに、九谷焼は伝統的に「素地づくり」と「上絵付」の工程が分業化されており、「素地づくり」に関してはその8割が、「上絵付」に関しても多くの窯元がこの小松市に集中している。
九谷焼の特徴は、一見するだけで圧倒的な印象を焼き付ける鮮やかさにある。「九谷五彩」と呼ばれる赤、緑、黄、紫、紺青の和絵具と、「金彩」により彩られた色絵磁器は、長い歴史の中で多くの人を魅了してきた。

そもそも1655年(江戸時代中期)、加賀藩の御用窯として、後藤才治郎により開窯された九谷焼は「古九谷」と呼ばれ、今のものとは区別されている。その「古九谷」は100年足らずで消滅したものの、江戸時代後期になり再興。明治時代に入ると、色と金彩を組み合わせた「彩色金襴手」といわれる技法が施された絢爛豪華な作品が海を渡り、世界中から「ジャパンクタニ」として高い評価を得る。多くの職人によって育まれた多種多様な技法は、九谷焼の財産だといえる。
錦山窯は、小松市で約120年の歴史を持つ九谷焼の窯元だ。1906年、吉田庄作によって開窯されて以来「上絵付」を専業とし、伝統技法を極めつつも、それぞれの時代に即した作品づくりに力を注いできた。現在、錦山窯4代を継ぐ吉田幸央さんはこう語る。
「上絵付の窯元は、色絵や金彩、釉薬などの素材とさまざまな技法を用いますが、錦山窯は特に『金彩』にこだわっています」
親子で異なる金彩の表現
幸央さんの父であり錦山窯3代である吉田美統さんは、「釉裏金彩」の第一人者として、その技術を極めたことから人間国宝に認定され、92歳を過ぎた今も作陶を続けている。
「釉裏金彩」とは、金箔が施された部分に釉薬をコーティングすることで金箔の剥離を防ぎ、その美しさを保つ技法だ。同時に、金箔の薄箔と厚箔を使うことから遠近感が生まれ、さらに金箔が釉薬に溶け込むことによって独特な表情を持つ。

「理に適っていながら、併せて新たな表現をもたらすのが、『釉裏金彩』のおもしろいところです」。幸央さんはそう語る。
一方、幸央さんが得意とするのは、金彩の中でも「金襴手」という技法だ。500〜600年前の中国が発祥とされ、色付けされた陶磁器にさらに金を施す技法である。
「若い頃は、九谷焼の金彩は煌びやかすぎると感じていました。ただ、さまざまな色を使い込むうちに、次第に、それらの色に金がよく馴染むと感じ始めたんです。金を使えば使うほど、むしろその美しさに惹かれるようになりましたね」
近年では、素材である金そのものが高騰しているため、金彩に特化した窯元は少ない。それでも金彩が織りなす美しさにこだわる姿勢は、錦山窯の大きな特徴となっている。
父、美統さんの「釉薬金彩」と幸央さんの「金襴手」。「金彩」という共通項を持ちながらも、二人の表現はまったく異なるという。
「父と同じことをやりたいとは思いませんし、やれるとも思っていません。九谷焼の技術は繋いでいっても、それによって表現するものは、時代や作家自身の年齢で変わるものだからです。
親父が『釉薬金彩』に魅力を感じ、自分の中に取り込み、自分なりの表現をめざしたのも一つの時代です。ただ、僕は当たり前の『釉薬金彩』ではつまらないと感じてしまう。常に工夫を加えて、新たな表現を追求したい作り手にとって、これはどうしようもないことなんです。素材や技法など、その時代に合ったものを積み重ねるのが伝統だと、親父も僕も考えています」
作家という立場と、一職人という立場

幸央さんは、2009年に錦山窯4代を承継している。九谷焼の窯元に生まれた者として、自らの使命のようなものを意識していたのだろうか。
「いえ、子どもの頃から意識することはなかったですね。開窯して120年ほどの窯ですので、『継ぐ』というより家業がそうだったという感じです。手先が器用で、ものづくりも好きでしたので、向いていたのかもしれませんが、他に特別秀でたものがなかったとも言えます」
めざしたというより、自然な流れで九谷焼の世界に足を踏み入れた幸央さんだが、金沢美術工芸大学工芸科卒業後は、石川県立九谷焼技術研修所に入学。在学中には「朝日陶芸展奨励賞」を受賞する。
「陶芸のコンペティションで受賞し目立つことが、ある意味、次のステップに進むきっかけとなる時代でした。家業を手伝いながら、作家としても活動したことで、焼物の世界でなんとかやっていけるかもしれないと思えたのも事実です。大学や研究所で学んだ時期は、私にとってモラトリアムな時間だったと言えますね」
そして30歳を手前に錦山窯に入る。
幼い頃の記憶の中にある絵具や薬品の匂いはそのままだった。火鉢に火を起こすところから始まり、一日中座ったまま淡々と続ける作業。「正直、ここでずっと働けるのかと思いましたね」と幸央さん。
九谷焼伝統のさまざまな技法を教えてくれたのは、昔気質の父ではなく職人たちだった。作家として自分の表現を追求するだけではなく、並行して、錦山窯の一職人として作業を続けることに、苦痛に感じる瞬間もあったという。
「自らの作品をつくる際には、苦しいこともあります。ただそれは、未来への希望や楽しみを感じることでもあるんです」
作家として、同時に一職人として九谷焼に向き合う中で、幸央さんは徐々に自らの作風を確立していく。
やわらかな色彩と金彩、革新的な素地づくりで確立した九谷焼の新たな作風
「いざ陶芸家の道を志すと、実家が窯元ということで道具や材料なども自由に使え、ありがたかったですね。オブジェなど多様な作品を手掛けながら、今の作風の原点ができたと思っています。
ただ、僕はもともと、伝統的な九谷焼が持つ強烈な色彩があまり好きではなかった。どちらかといえば、白磁にかけられた釉薬のやわらかい質感や、陶器の土味に惹かれていたんです。日本人的な感覚なのかもしれませんね」

自らの心が引き寄せられる作風と九谷焼の作風。それらの「中間」を探っていた時期を経て、幸央さんは、水彩画のような色彩をつくり出す。洋絵具を塗り重ねて表現したやわらかさと、そこに加えられた金彩。幸央さんの作品は、これまでの九谷焼のイメージを大きく塗り替えるものだった。
さらに、従来の磁器の質感に飽き足らず、素地づくりにも取り組んだ。撥水剤を素地に塗ることで、釉薬が水滴のように弾く。できあがった凹凸に色を薄く重ねることで、味わいのある独特なにじみと濃淡が生まれた。
幸央さんが辿り着いた新たな技法について、父、美統さんはどのように思っていたのだろうか。
「親父は何も言わなかったですね。良いとも言わなければ、否定されることもありませんでした。ただ、たまに作業している僕の後ろに黙って立っていることがあって…。きっと言いたいことがあっても我慢していたのかもしれませんね」
それは、時代によって、作家によって、新たな技法が付け加えられることで伝統がつくられていく、という美統さんの意識の現れに違いない。
その意識は、世代を超えても受け継がれているようだ。錦山窯でともに活動する幸央さんの息子、太郎さんの作風は、父、祖父のどちらのものとも異なり、モノトーンで統一されている。
「僕が九谷焼のある部分に対し反発を覚えていたのと同じように、彼にも強烈にそんな感覚があるんでしょうね」と、幸央さんは話す。
ただ、作家として多様な表現に没頭できるのは、九谷焼の窯元に生まれたというストーリーがあるからこそだと言えるだろう。
九谷焼を暮らしに取り入れる、という提案
2019年にオープンした「嘸旦」は、錦山窯の新たなギャラリーである。小松市で採掘された「観音下石」を積み重ね建てられたそのギャラリーは、静けさとともに大自然に包まれているかのようなあたたかさを感じる。
「『嘸旦』は、作家や職人たちの表現の場として使われています。それに加えて、僕たちがこれまであまり伝えてこなかった、九谷焼の価値観を知ってもらう場でもあるんです。九谷焼は決して安いものではありませんが、ここでは、暮らしへの取り入れ方もお伝えしています」
子どもの頃から、普段の食事で色鮮やかな九谷焼の器を使っていたという幸央さん。逆に、色のない真っ白な器には違和感を覚えるという。だが、使い手とのやり取りの中で、金彩の器は使っていくうちに色や金が剥がれてしまうがゆえに、使いづらいと思われていることを知った。
「これは、とても意外でした。色や金が剥がれるのは、作り手にとっては当たり前のことで、美しいエイジングなんです。しかし、その価値が伝わっていないと感じましたね」
飾るだけではなく、暮らしの中に取り入れてほしい。そう感じた幸央さんは、「嘸旦」を拠点に、食、茶、酒、香りなどとコラボレーションすることで、九谷焼を使う楽しさを伝えている。イベントやワークショップを開催し、九谷焼の新たな魅力を伝えようとしているのだ。
「アートにもなれば、クラフトにもなる。時や場所によって使い道を変化させられる。それが九谷焼のおもしろさです。いろんな機会を通じて、新たな価値観を少しずつ伝えていければと思っています」
欠片によって伝える「そのまま」の美しさ
「嘸旦」でのイベントでは、現在、これまでには登場しなかった九谷焼が使われている。
2024年1月1日に発生した能登半島地震で割れてしまった作品の欠片だ。
「輪島の漆塗りや、珠洲市の珠洲焼などへ大きな被害をもたらした今回の地震ですが、実は、錦山窯の作品もかなりの数が割れてしまいました。その欠片を箸置きなどに利用し、食事会や茶会を開いているんです」
あらゆる色や金彩を施した九谷焼は、欠片と言えども、美しさを失ってはいない。
ただ、割れたものを「そのままのかたち」で使うのは、どうしてなのだろうか。
「金継ぎをしてはどうかと持ちかけられることもあるんですが、割れたものをくっつけるというのは、作り手の僕にとっては『修理』のように映るんです。ある種の痛々しさを感じるというか。見ているだけで綺麗だと感じる欠片に何かを施すことが、どうしてもあざとく見えてしまう。そうではなく、欠片を欠片のまま残し、自分たちの想いが伝わる新たな表現の機会を模索する方が正しいと思えるんです」
実際に、欠片を使い、コンテンポラリーダンサーや写真家とのコラボレーションも企画しているが、そこには祈りにも似た感覚があるという。現実に起こったことの結果をそのままのかたちでリクリエーションすることは、新たな価値感をつくり出しているのかもしれない。
未来へ繋いでいきたいものは何か?
最後に、幸央さんに錦山窯のこれからについて聞いてみた。

「親父も僕もそうですが、自然派だとか、昔にこだわるような感覚はないんです。それよりも、新しい表現の可能性を追求するために、手づくりのおもしろさを失わず、今という時代の技術を取り入れていきたいと思っています」
もともとテクノロジーに強かった美統さんは、電気炉の電気制御盤開発に尽力し、さらに、金箔を擦り潰す石川式攪拌擂潰機も手掛けた。幸央さんもIT技術を自らの作品づくりに活かしている。大手電機メーカーと共同で、色の組み合わせをシミュレーションできるシステムを開発し、そこに九谷焼の新たな可能性を見出しているのだ。
「今も昔も、さまざまな技術を貪欲に吸収しながらものづくりに取り組むことが、自分たちらしさだと思っています」
現在、小松市には若いクリエイターも多く移り住んでいるそうだ。幸央さんは、彼らが新しい文化をつくり、発信することを期待しているという。
120年の間、この地で時代とともに自らの伝統を紡ぎつつ、常に新たな表現を追求し続けてきた錦山窯の歴史は、彼らの姿に通じるものがあると感じる。これまでもそうだったように、錦山窯の作品は、これからも九谷焼のさらなる魅力を私たちに示してくれるに違いない。