
柔軟に、そして軽やかに――未来に描くのは、誰からも愛される茶道の姿
宮﨑宗伊
Soi Miyazaki
会津 [福島県]
宮﨑宗伊(みやざき・そうい)
福島県会津若松市出身。裏千家茶道教授として会津茶楽会・宮崎茶道教室を主宰。裏千家家元を祖母に持ち、中国および京都で茶道を学ぶ。伝統的な稽古に加え、多様な場とスタイルで茶に触れる機会を創出。地域文化と結びつけた新しい茶道のかたちを提案する。
会津若松城のほど近くで茶道教室を主宰する宮﨑宗伊さんは、伝統を受け継ぐ茶人でありながら、イベントやマルシェなどを通じて新しい茶の入口を拓いている。若い世代の茶道離れが進むなか、地域の伝統工芸と結びつけながら誰もが親しみやすい茶道のあり方を模索しているのだ。揺るぎない王道を土台に、いかにしてその姿を見出すのか。宮﨑さんの真意に迫った。
日常の動きを磨き上げた、合理的な美しさ
「皆さんの前でお話しするでしょ、そうすると、たまに『落語家さんですか?』なんて聞かれることがあるんです。そんなわけないでしょ、と思いながらも、私の言葉や振る舞いがお茶の世界に対するハードルを下げているとすれば、それでいいのかもしれませんね」

会津若松城からほど近い場所で、「宮崎茶道教室」を主宰する宮﨑宗伊さんはそう語る。会津木綿の着物に身を包んだやわらかな物腰からは、茶道の先生という厳格な印象はほとんど感じられない。場の空気をふっと和ませるその佇まいこそが、宮﨑さんの持ち味である。
「肩書きとしてはお茶教室の先生ですが、イベントで野点をしたりマルシェで抹茶ラテをお出ししたりと、教室の外でもお茶に触れる機会を作っています。伝統的なスタイルに縛られず、まずは気軽に楽しんでいただくことが大切だと思っているんです」
その背景にあるのは、会津に限らず全国的に進む「茶道離れ」という現実だ。特に若い世代にとって、茶道は教養を身につける習い事の選択肢にすら入っていない。指導者層の高齢化も深刻で、毎年秋に開かれる地元の「大茶会」では主催者や手伝いの多くが70代から80代。顔ぶれは、この10年ほとんど変わっていないという。
「これには、若い人が入りにくい構造的な問題があります。興味を持っても、まずどこで学べるのかという情報が少ない。学ぶチャンスがあったとしても、初対面の相手をいきなり『先生』と呼ぶのには心理的な壁もあるでしょう。これでは、せっかくの意欲も削がれてしまう。だからこそ、教室以外の場が必要なんです」
裏千家の家元である祖母を持つ宮﨑さん。きっと、そのDNAが駆り立てているのだろうと思いきや、意外な答えが返ってきた。
「幼い頃の私は、お茶を飲むだけのためになぜこんな面倒なお手前がいるのだろう、と感じていました。正直なところ、とても冷めた目で見ていたんです」
転機は、高校3年生のときだった。学園祭で団子屋を企画した友人から、祖母が点てた抹茶も添えたいという相談を持ちかけられたのだ。手伝いのつもりでお茶を点てた宮﨑さんだったが、同時に思いがけない気づきがあったという。
「お茶のお手前は、特別な動きをしているわけではないんです。お茶碗を右手で取り、左手に乗せる。ただそれだけの動作を徹底的に磨き上げる。そこに合理的な美しさを感じて、初めて茶道が面白いと思えたんです」

日常にある何気ない動作を、無駄なく美しく整えていく。それに気づいた瞬間、茶道は面倒な作法から洗練された芸術へと姿を変えた。
宮﨑さんは大学卒業後、中国の裏千家の学校で学び、帰国後は京都の茶道専門学校へと進む。そして30歳を過ぎて会津へ戻り、祖母の教室を継承した。
だが、いざ身を置いて目の当たりにした現実が、その後の活動を形作ることになる。
会津が繋いだ千家の道、そして今
会津地方の茶文化を語るとき、しばしば起点として挙げられるのが、戦国期にこの地を治めた蒲生氏郷と千利休の子・少庵である。蒲生氏郷といえば、会津漆器や会津本郷焼など現代まで続く会津の伝統文化の礎を築いた人物。茶の湯の祖である千利休に才能を認められた「利休七哲」の筆頭でもあり、利休切腹の折にはその道を絶やすまいと少庵を匿った。この氏郷の英断があったからこそ千家茶道は再興し、京の地で「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の三千家が確立され、今日まで受け継がれている。
さらに江戸時代に入ると、会津藩初代藩主の保科正之公が武家茶道の中枢にいた小堀遠州や片桐石州らに師事したことから、武家文化として定着していく。加えて、家訓の中で徳川幕府に忠誠を誓い、義を貫くことを最優先にした会津藩士の揺るぎない精神性が茶の湯への真摯な向き合い方に反映されていった。そして興味深いのは、武士の教養として根付いていた文化が、この地の女性たちにも広がった点である。
「幕末の頃、作法が比較的柔軟といわれる『裏千家』が町人や商人だけでなく女性にも門戸を開いたことで、お茶の師範を志す女性が現れ始めたんです。
戊辰戦争を生き抜き、後に同志社女子大学を開校した山本八重もその一人。大学のカリキュラムには茶道が取り入れられたと聞きます。今ではお茶の師範といえば女性というイメージもありますが、きっかけを開いたのは会津なんです」

もちろん、現代の会津でも茶道の流れは途切れてはいない。片桐石州を流祖とする「石州派」や「裏千家」など複数の流派が「会津茶道会」を結成し、伝統を繋いでいる。しかし、その裾野が広がっているとは言い難い実情だ。
「お茶を難しく捉えてしまわないように、『お手前は一旦忘れて、好きなように飲んでみてください』とお声掛けするんです。皆さん驚かれますが、ほっとした表情でお茶碗を手にされます。
幼い頃に抱いた感覚があるからこそ、茶道を客観視する姿勢も必要だと感じるんです。そうすることで、アプローチの幅も広がるはずですから」
茶道は日常の延長線上にあるもの
宮﨑さんの活動の軸にあるのは、茶道を特別なものと捉えるのではなく、日常の延長線上に位置付けるという視点だ。お茶を淹れるという行為は、暮らしのなかの当たり前の動作である。それを美しく磨いた先に、茶道という芸術、非日常が生まれたのだ。

「それがどんな芸術なのかと問われると、私自身、まだ明確な答えを持っているわけではありません。ですがどんな定義であれ、茶道が人の喜びや幸せのために存在していることは確かです。だからこそ、リラックスしてお茶に触れ楽しんでいただきたい。
もちろん正しい作法も大事ですが、それ以上に心豊かになることを優先したいんです。
どんなスタイルであれ、時間とお金を使って足を運んでくださったお客様に『来てよかった』と感じていただく。その姿勢は、他のエンターテインメントと同じではないでしょうか」
お茶を嗜むという行為を通し日常と非日常の間を行き来しながらも、あくまで楽しさや親しみやすさを大切にする姿勢は、どの活動にも一貫している。
一方で宮﨑さんは、伝統を重んじる茶道の多様性についても考え続けている。
「例えばクラシックの巨匠は?と聞けば、ベートーベンやモーツァルト、バッハなど、いくつも名前が挙がります。でも、お茶の世界となると千利休しか出てこない。これは一般の方に限らず私たちの世界でも同じで、『利休に学べ』『利休に帰れ』と今も繰り返しています。
利休が偉大な人物であることは疑いようがありません。ただ400年が経ってもその道だけ、というのはなんだかもったいない気がして…。
お茶にも、もっと多様なスタイルや価値観があっていいはず。だからこそ、ここ会津から一味違ったお茶の文化を創り出せたらと思っています」
その思いは、「メイドイン会津」へのこだわりにも表れている。茶道文化の中心は京都であり、場所が変わっても用いる道具は京都製がほとんどだ。しかし、会津で親しむお茶だからこそ、会津で生まれた道具を使うことに宮﨑さんは意味を見出す。それは茶道を通して、この地で育まれた伝統文化やその作り手といった会津全体の価値を伝えたいと願うからだ。「名工」と呼ばれる職人の傍には、常に「名茶人」がいるという。たとえ、どんなに美しい器があったとしても、使わなければその美しさが人々の心を打つことはない。
「多くの伝統工芸は、担い手不足を理由に今や風前の灯。もし50年後、100年後にそれらの文化が途絶え、お茶の道具がすべてプラスチックになったとしたら、これほど残念なことはありません。職人たちが生き残る術を支えていく。茶人は、それらの守り手であるべきだとも思っています」
未来へ繋いでいきたいものは何か?
最後に、宮﨑さんに未来へ繋いでいきたいものは何か、と尋ねた。

「やはり茶道ですね。利休の話をしましたが、彼が残した茶の道が今日まで受け継がれているのは、それだけの確固たる力があるからだといえます。私がさまざまなお茶の楽しみ方を提案できるのも、利休という王道があればこそ。言ってみれば、親の庇護の下で遊んでいるような感覚でしょうか。
だからこれからも自由に、新しいお茶のあり方を探し続けていきたい。お茶に初めて触れる方が、『こんな楽しみ方もあるんだな』と感じていただけるような一面を広げたいと思っているんです」
宮﨑さんのお茶席に集うのは、子どもたちやハンディを持つ方、海外の方までと実に幅広い。そこに共通しているのは、誰もが肩肘はらず親しみを持ってお茶を楽しむ雰囲気だ。なんと素敵な空間だろうか。
「私がモデルにしたいのは、カリフォルニアロール。日本の巻き寿司がアメリカで姿を変え、新しい食文化として親しまれているでしょ。茶道も京都だけでなく、地域ごとに異なる楽しみ方が生まれ、多様な流派として育ってほしい。