
神職の副業を経て、300年続く窯元へ──会津の自然が育んだ、本郷焼という文化
宗像利訓
Toshinori Munakata
会津 [福島県]
宗像利訓(むなかた・としのり)
会津美里町本郷出身。京都伝統工芸専門学校で学んだ後、島根の窯元で二年間修業を積む。300年続く宗像窯の九代目。八代目の父・利浩さんとともに作陶に励む。会津の自然からインスピレーションを受けた釉薬「翠彩釉(すいさいゆう)」を開発。
焼物の里、会津本郷。最盛期には100件以上の窯元が軒を連ねるも、現在は十数軒に留まる。生き残りが難しい中、300年以上の歴史を重ね続けている宗像窯。伝統を受け継いでいく責任と、一人の職人としての在り方とは。九代目・宗像利訓さんに詳しく伺った。
神主が始めた焼き物──雪国の春を写す「翠彩釉(すいさいゆう)」

向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)の懐に抱かれるように広がる、会津本郷の里。 その静かな風景の中に、300余年の歴史を刻む「宗像窯(むなかたがま)」はある。 「おあいなはんしょ(どうぞお入りください)」 会津弁の温かい暖簾をくぐり、一歩足を踏み入れると、そこは外の寒さを忘れるほど柔らかな空気に満ちていた。 並んでいるのは、深い藍色や、雪解け水を思わせる淡い翠(みどり)色の器たち。 それらは単なる食器という枠を超え、どこか神聖な気配さえ漂わせている。

迎えてくれたのは、九代目・宗像利訓さん。 柔らかな物腰と、言葉を選びながら丁寧に語るその姿は、この窯のルーツが「神職」にあることを静かに物語っているようだった。
宗像窯の歴史は、江戸時代中期の享保4年(1719年)にまで遡る。 しかし、宗像家がこの会津の地にやってきた理由は、焼き物ではなかった。 「もともとは、福岡県の宗像大社から派遣された神主でした。」 布教のために会津へ赴任し、神官としての務めを果たす傍ら、副業として始めたのが焼き物作りだったという。 「時代の変遷の中で、いつの間にか、焼き物作りが専業になりまして。私で九代目になります。」
刀を捨てて土を捏ねた武士もいれば、神に仕えながら炎と向き合った神職もいる。会津本郷焼という産地の多様性を象徴するようなエピソードだ。 現在でも宗像家は地域の神社の氏子として、祭りや神事を大切に守り続けている。 「神主としての仕事の名残は特にないですが、精神的な部分では繋がっているのかもしれません。」 土を敬い、火を畏れ、自然の恵みを形にする。陶芸という行為そのものが、ある種の祈りに似ているからだろうか。宗像窯の器が持つ凛とした佇まいは、300年変わらぬその精神性から来ているのかもしれない。
宗像窯といえば、深い藍色や紫色の重厚な作品が知られている。 しかし、 宗像さんが生み出したのは、それとは対照的な、淡く透明感のある「翠(みどり)」の世界だ。 彼はそれを「翠彩釉(すいさいゆう)」と名付けた。

「修行を終えて会津に戻ってきた時、改めて地元の自然の美しさに気づかされたんです。」 京都で技術を学び、島根で修行を積んだ彼が、故郷で見たもの。 それは、長く厳しい冬を耐え抜いた後に訪れる、溢れんばかりの春の喜びだった。 「雪解けとともに一斉に芽吹く新緑。その眩しさ、生命力。雪国ならではの『春の感動』を、器で表現したかったんです。」
翡翠(ひすい)の「翠」に、彩りの「彩」。 この美しい釉薬を生み出すために、彼は試行錯誤を重ねた。 ベースとなるのは、地元で採れた植物の「自然灰(しぜんばい)」だ。市販の精製された灰とは違い、成分が不均一で扱いは難しいが、その分、複雑で深みのある色が出る。 「まず白い釉薬をかけ、その上から調合した緑系の釉薬を流す『重ね掛け』という技法を使います。」 不安定な釉薬を二重に掛ける。それは、窯の中で何が起こるか予測できない、賭けのようなプロセスだ。 「毎回が実験であり、生き物を相手にしているような感覚ですね。」 しかし、うまくいった時には、まるで霧の中に木々が浮かび上がるような、幻想的なグラデーションが生まれる。それはまさに、会津の春そのものだ。

宗像窯のもう一つのこだわりは、土にある。 「的場陶土(まとばとうど)」と呼ばれる、地元の土を一貫して使い続けているのだ。 「向羽黒山城に、かつて『的場(まとば)』という弓の練習場があったそうですが、その付近から採れた土です。」 300年前の先祖も、同じ場所の土を掘り、同じ土の匂いを嗅いでいたはずだ。その土の記憶が、九代目の指先を通して現代の器へと継承されている。
工房の奥には、立派な登り窯が鎮座している。 震災後に修復されたその巨大な窯は、かつては2年に一度のペースで火が入れられ、3日3晩、交代で薪をくべ続けていたという。 「登り窯には、薪の灰が被って生まれる独特の風合い(景色)があります。それは素晴らしいものです。」 しかし現在、宗像さんの作品作りの主役はガス窯だ。 それは単に「薪の確保や人手が大変だから」という消極的な理由ではない。 「私の『翠彩釉』のように、微妙な色の変化や繊細なグラデーションを表現するには、温度や酸化・還元を調整しやすいガス窯の方がより扱いやすいんです。」
伝統的な登り窯を否定するのではなく、表現したいものに合わせて最適な道具を選ぶ。 「古いから良い」という盲信に陥らず、現代の技術も柔軟に取り入れる姿勢。それもまた、京都や島根という「外の世界」を見てきた彼ならではの合理性とバランス感覚なのだろう。
偉大な先代たちの背中を超えて

「小さい頃から、祖父や父が仕事に打ち込む姿を見てきました。その情熱や誇りに触れて、自然と跡を継ぎたいと思うようになりました。」 宗像さんはそう語るが、それは決して平坦な道ではなかったはずだ。 八代目である父や七代目の祖父もまた名工として知られる。
300年の看板と、偉大な先人たち。その重圧は計り知れない。 しかし、宗像さんの口ぶりから気負いは感じられない。 「伝統をベースにしながら、新しいエッセンスを加える。あまりに奇抜なことはしませんが、良くなるなら率先して取り入れればいいと考えています。」 彼は静かに、しかし確信を持って、自分の代の「色」を作り上げている。 それが「翠彩釉」であり、現代の暮らしに馴染む柔らかなフォルムなのだろう。
日常に溶け込む「会津の風土」

「器をどう使ってほしいか」という問いに、宗像さんはこう答えた。 「お客様のライフスタイルに合わせて、自由に使っていただきたいです。花を生けてもいいし、会津の美味しいお酒を楽しんでもいい。」
彼自身も、自宅でコーヒーを飲んだり、庭の花を一輪挿したりと、自らの器を日々愛用している。 「用の美」の精神は、現代の暮らしの中でより洗練された形で息づいている。 彼の器を手に取ると、土のどっしりとした感触の中に、釉薬の滑らかさが共存していることに気づく。それは、雪解けの地面から顔を出したふきのとうのような、春の感触だ。
「地元の土や自然灰を通して、会津の歴史や風土を感じてもらえたら嬉しいですね。」 派手なパフォーマンスや、声高な主張はない。 ただ、誠実に土と向き合い、会津の自然を写し取る。 その静かな営みこそが、神職から始まったこの窯が300年続いてきた理由なのかもしれない。
未来へ繋いでいきたいものは何か?

宗像さんが未来へ繋いでいきたいものは、会津の自然が培った、本郷焼という文化そのものだ。
「会津は山に囲まれた独特な場所だからこそ、独自の文化が育まれました。そのオリジナリティこそが強みです。」 宗像さんは、会津本郷焼の未来を悲観していない。 豊かな自然と歴史が育てた文化を、器を通して少しずつ届けていきたい。その積み重ねが、本郷焼の未来につながる。派手な野望ではなく、丁寧に受け継ぎ、丁寧に伝えていく姿勢が印象的だった。
取材を終え、工房を出ると、向羽黒山城跡の山並みが夕暮れに染まっていた。 かつて弓の稽古が行われた「的場」の土は、今、美しい翠色の器となって、誰かの食卓を彩っている。 神主が蒔いた種は、300年の時を経て、大樹となり、いま九代目の手によって新しい「春」の花を咲かせようとしている。
宗像窯の器を使うとき、私たちは単なるモノを使っているのではない。 会津の長い冬と、それを乗り越えた歓喜の春、そして300年の物語に触れているのだ。